大阪中之島美術館の民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある 展の入り口

民藝

先日大阪へキネシオロジーを学ぶ仲間の催す会へ行った。
その翌々日にその一人の仲間と大阪中之島美術館で催されている民藝の展覧会へ足を運んだ。”民藝”と書かれた暖簾をくぐった先にはこう書かれていた。

”私は何よりも普段使いの品が健全にならずば、この世は美しくならないと思う者です。”
柳宗悦「民藝の趣旨」『民藝四十年』岩波書店、1984年

心を打った。
今の世の中に対して、切実に訴えかけている様にも感じ取れる。
IKEAのガラスコップかDURALEXのガラスコップでいただく水では何かが異なるのか。
コンビニでもらったプラスチックスプーンでいただくカレーライスと銀製のスプーンでいただくそれとは何か違いがあるのだろうか。

私はこの言葉の重みを実感する。やはりご飯はお茶碗でいただきたいし、味噌汁は汁椀でいただきたい。
百均で購入したプラスチック製の器では何かが失われてしまう気がするのだ。

この会は日本における民藝運動の第一人者、柳宗悦や濱田庄司や河井寛次郎の蒐集品や各地の民藝品、日本に残る稀少となった技術や品々が紹介されている。
展示されている品々には独特な雰囲気を持ち、且つなんとも言えぬ美しさを持つものが多い。
どれも展示されているものは各地で普段使いされていたものなのだ。
美を中心に求めて作ったのではなく、日常使いに適したかたちを追求したらそうなった、いわゆる”用の美”を持つ品々だ。

私はキネシオロジーを学んでいる。私の師はキネシオロジーを用いて人を救う治療家である。
そこには医療でいう様な内科、外科、呼吸器科、泌尿器科、整形外科といった枠組みを用いて人を救う領域は存在しない。
師に言わせてみれば、なんでもござれである。但し、「本人に治る気があれば」の話ではあるが。

私は治療家を志してはいないが、キネシオロジーの”日常使い”には非常に関心がある。何故なら確かな筋肉反射テストの腕と自身の確かな志さえあれば、”治療”とはならずとも、人を救う可能性が拡がるからである。
師の領域から見た人を治す行為というのは、その人を悪さしていた原因を取り除くということである。そしてその”悪い気”が取り除かれるということは、それがどこかへ飛んでいったり、はたまた治療側が食らってしまう形となり、数日間体調を崩してしまう可能性があるということだ。
私はこの”食らって”しまうに耐えられる自信がない。そこまで自身の体は強くないと感じている。もし続けてしまったら自身の体が持たないことを感じている。
だから治療家に大いなる敬意を持ちつつも、自身がなろうとはとても思うことが出来ない。

しかし前述した通り、”キネシオロジーの日常使い”には大きな可能性を感じている。
私はここまで革命的なものに出会ったことがなかった。

私見を交えて述べると、キネシオロジーを用いた治療家となる為には、”強靭な肉体”を持つことが要求される。ここで述べる”強靭な肉体”とは、決して体力だけを指すのではなく、生まれ持った霊(心霊といった方が適切かもしれない)的な耐性、人を治療した後に跳ね返ってくる反動や深い領域に達した後のリカバリー能力が求められる。それは42.195kmを2時間台で走り切る体力やプロ野球選手になることとは全く別物の能力である。

そこには宿命という言葉も潜んでいることだろう。あるいは使命か。人はそういったものを宿されてこの世に生を受けている。こればかりはいくら覚悟をしたところで超えられるものではない。

民藝が「美は暮らしの中にある」と述べるならば、「キネシオロジーは暮らしの中にある」と述べて良いのではないか。
美は高価な絵画や超絶技巧の名人技だけではないというのであれば、キネシオロジーも決して治療のものだけではないのである。

キネシオロジーは暮らしの中に採り入れるとはいえ、それはぬるくていいですよ、という訳ではない。鍛錬そのものの強度は個々の耐性によるとはいえ、治療家やキネシオロジーを生業としようとする人との何ら変わりはない。施す対象は異なれど、基礎的な技術は同じ。ここがポイントである。師の述べる通り、「自分が整ってなきゃ人なんて診れねえよ」である。
何故なら日常に用いるにしても自身の身体がに狂いが生じていたらそのテスト自体においても狂いが生じてしまうからだ。
民藝のある日常においても同様である。特殊コーティングが施されていない木製のお椀を洗剤で洗ってしまったらいけないのだ。何事も基本に忠実である必要がある。日常だからといってそこにある一定の秩序は変わらない。相手(器や道具)を慮る気持ちは対象が人であろうとものであろうと変わらない。更にキネシオロジーについて語るならば、ものが発する声なき声を拾うことも上達の一助となるのは想像に難くない。

民藝品には作り手の数を重ねたからこその芸(わざ)が隠れており、キネシオロジーが質の高い”日常使い”へと昇華する為には量を積み重ねて質へと転化していく必要があるのだ。