ジェイボードを練習する著者

稽古

今月、万年筆とこれはというノートを買ってからというもの、ブログの更新頻度が上がってきた。書きたくなるというのは不思議なもので2,000文字前後の文章でも「あれ、もうそんなに書いてたの」という具合に書いている。これらの文章はまずノートに通しで文章を書いていく。いわゆる下書きになる訳だが、その文章をキーボードで打ち込んでいく。ならば最初からキーボードで打ち込めば良いのではないか、という声も聞こえてきそうであるし、仰る通り二度手間である。しかし万年筆でノートに書き込むことが非常に心地良く、病みつきになる感覚を覚えてしまったのだ。気が付けば執筆にのめり込み、予想以上の時間が経過している。集中しているから、時間の長短が気にならない。効率を超越したからどうでもいい。もしキーボードで打つとなると、知らず知らずのうちに何かを検索したくなってしまい、気が散ってしまい、こちらも気が付けば違うことを検索していて予想以上の時間が経過していた・・。なんてこともある。この筆先がノートに吸いつく様な感覚がたまらないのだ。

ブログを書き始めたのは2017年のことで、blogger、note、そして現在の自作のウェブサイトとプラットフォームを乗り換えてきた。
当初はAdsenseの導入も検討したが、そもそも閲覧数が少ないし、収益も見込めない。また広告をつけることによって、文章そのものよりもより多くの人に読まれることに意識がいってしまいそうな気がしたので、やめた。
では何故ブログを書いているのか。正直文章を書くのが大好きかと言われたらそうでもない。生業にしようとも思ってもいないが、将来何か自身の著書を世に送り出したいという気持ちはある。その時の何かを書きたい気持ちに身を任せることで、未来に繋がる何かになりそうな予感はある。
最近読んでいる本の著者は、自身のウェブサイトで1,800以上もの書評を世に送り出してきた。氏は「ぼく自身の編集稽古だと言うのが一番当っている。」と述べていた。なるほど。私は書くブログというのが実は自身への稽古だったのではないかと合点した。
私がブログを書き始めたのはある人きっかけで、どちらかというと書きたいというより、一種の訓練、トレーニングになるから行うというイメージがあった。じじつ強迫観念で続けた時もあったし、ここ数年は途切れ途切れで書いていたのが実情だ。
しかし、稽古という言葉に置き換えてみたらどうだろう。妙に腑に落ちる感覚が芽生えた。

トレーニングと稽古、一見似た様な言葉だけど何が違うのだろう。トレーニングは「練習をすること。訓練、鍛錬」とある。稽古は芸術・武術・技術などを習うこと。また、練習。」、「芝居などで、本番前の練習。下けいこ。リハーサル。」、「昔の書を読んで物の道理や故実を学ぶこと。学問。」とある。ちなみに訓練は「あることを教え、継続的に練習させ、体得させること。」、「能力、技能を体得させるための組織的な教育活動のこと。」とのことだ。稽古という言葉には包容力がある様な気がする。そうか、私は今は見えない未来の本番に向けて、自分で自分に稽古をつけているのか。なんだか面白そうになってきた。

言葉というのは面白いもので、似た様な言葉同士でもイメージが全く異なってしまうものである。更に同じ単語でも使う場面やタイミングによってこれまた変容してしまう。言葉はそのもの単体だけではなく、言霊ともいうとおり言葉の主の感情をまとい、何か含みを持たせてやってくる。辞書での言葉の意味もさることながら、稽古という言葉には厳しさの中にもどこか温かみが内包されている印象を持つ。対してトレーニング、訓練には団体で行うこともあるけれど、どこか孤独で無機質な雰囲気をちらつかせている様な気がしなくもない。課す印象が強いのだ。英語にするとimposeがそれにあたるが、税金を課す、罰金を課すの他に義務を課すという意味でも使われる。受け身な印象だし、古臭い軍国主義的な匂いさえ漂ってくる。
いやいやちょっと待て。フィットネスクラブで行う様なベンチプレスやトレッドミルで走るのもトレーニングじゃないか。厳密にいうと少し異なる。あれは英語でいうとwork outになるのだ。つまり半分くらい和製英語。日本語でこれからトレーニングするんだ、はI’m going to work out.だ。だからこれからはブログを書くことを私に「課す」トレーニング・訓練ではなく、私が私につける稽古なのだ、と述べることにする。柔らかな表現の方がゆとりがあるし、実践で応用の効く間が生まれる。

「言葉遣いに気をつけなさい」。誰もが言われたことのある言葉だろう。敬語がうまく使えていない、目上の人なのに表現が緩い、子供の頃大人に対してタメ口で話してしまっていた。色々なシチュエーションがあるだろう。
これからは「言葉遣いを掘り起こそう」である。日本語というのは尊敬語・謙譲語・丁寧語などがあって使い分けがややこしい。たが一旦慣れてしまえば「とりあえず失礼のない様に丁寧にしておけばいいや」と言った具合に甘んじてしまう自分がどこかにいる。
今回の稽古という表現ではないけれど、今行っているそのこと、あのことに対してちょっと違う言い方を見つけてみるのはどうだろう。「ウィスキーを嗜む」にしてみる、生徒を指導するのではなく、「指南する」に変えてみるのも良いだろう。自身の仕事を「する」のではなく仕事に「相対する」と言い換えてみたらどうだろう。少し作業的なニュアンスがほぐれて、より主体的に取り組む感じが出てこないだろうか。

最近のメディアには新入りの「カタカナ語さん」の出入りが激しい。そこの役職をつけているおじさんはダイバーシティの英字綴りも分からないくせに会社の打ち合わせで多用しているじゃないか。そんなことばっかりやっているから多様性が失われているんだよ!と引っ叩いてやりたい気分だが、それが日本の現状である。そんな新入りさんばかり使っていないで、先人達が残してくれた味わい深い言葉を嗜もうじゃないか。せっかく日本人として生まれたのだから、どうでもいいくらいに微細で曖昧な違いを楽しもう。30年も失っちゃってきたわけなのだから。そんなハイブリットな提案ができたならば、本当の意味で独特な立ち位置を持つガラパゴスな国になれるかもしれない。英語さんには申し訳ないけれど、あなたがたには真似できない間を私達は持っている。