琉球キネシオロジー

琉球キネシオロジーから学んだキネシオロジー。自身の実感をお伝えします。

メタモルフォーゼ

大阪のカフェにいた蛹の跡

最近、師が新たなるコンセプトを提唱した。
その名も、メタモルフォーゼマッスルテスト。
メタモルフォーゼとは、ギリシア語のmetamorphosis(メタモルフォシス)が語源で、変態、変身を意味する。
生物学でいう変態に当たるのがメタモルフォーゼだ。イモムシでは、蝶の形になってさなぎになる時に行う脱皮・変態のことを蛹化という。

私がメタモルフォーゼという言葉に出会ったのは小学生の頃。当時流行していた遊戯王カードで”突然変異”と書いて”メタモルフォーゼ”と読ませるカードがあった。効果は覚えていなかったが、改めて調べてみると、”自分のフィールド上モンスター1体を生け贄に捧げる。生け贄に捧げたモンスターのレベルと同じレベルの融合モンスターを融合デッキから特殊召喚する”という中々のカードだ。現在遊戯王の公式ルール?では禁止カードにされているらしい。中々インパクトのあるカードだ。

このギリシア語を語源に持つ言葉は、metaにはchangeやbeyond(超える)という意味を持ち、morph(e)にはshape(物の形)、form(外形)、kind・type(種類)といった意味を持つ。つまり直訳すると”形を変える”や”種類を変える”といった具合だろうか。
今流行りのメタバースはmeta universeの略語でuniverseには(個々の)世界・領域や全世界、宇宙といった意味があるので領域を超えた世界といった具合であろうか。確かにもう一つの領域でアバターが動いている。
Facebook社も社名をMetaに変更したが、先ほどの語源から来ているのだろう。

今回のニューコンセプトはイモムシ状態のマッスルテスト達に対し、師という”ちょうちょ”と同じ感覚・反応を直接その場で体感することでメタモルフォーゼする橋渡しとなる意味がある様だ。
何事もそうであるが、本物に触れると一種の指標(インディケーター)が出来上がる。立位と座位のマッスルテストのことをインディケーターマッスルテストと称するが、今回の指標となるのは師でまさにインディ”ケイター”である。この言葉遊びはただの偶然か。

野球少年がプロ野球選手のプレーを間近で見れば感動するだろうし、更に間近で手ほどきを受ければより本物を追求するきっかけとなり、感覚が養われるだろう。

問題はイモムシの身の回りに蝶々という本物がおらず、イモムシだけでマッスルテストを練習する場合はどうすればいいのだろうか。指標がいない。
本当に自分のマッスルテストの反応が正しいのか分からない。そんな人同士で練習を続けることは無意味なのだろうか。いや、私は活路を見出せると考える。なぜなら、あらゆる創始者は皆最初はイモムシだったからである。例え未熟でも、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返す。その先に新たな発見や原理原則を見出すことができるのだ。基本に忠実に、数を重ねることで上達にはなる。次に蝶に会う時までにイモムシの集いが続いていると言われてしまっても仕方がないが、知恵を絞ることが出来る。集いの濃度を高めることは出来る。

メタモルフォーゼという言葉を含む曲を調べたら、リヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン ー23の独奏弦楽器のための習作(原題:Metamorphosen für 23 Solostreicher)」という曲があった。リヒャルト・シュトラウスと言えば、映画「2001年 宇宙の旅」で有名な「ツァラストラはかく語りき」の作曲家である。「メタモルフォーゼン」は1945年、彼の母国ドイツが敗戦を目の前としている3月に知人の追悼曲をとして書かれたものだ。更にドレスデンが無差別爆撃を受け国立歌劇場が崩壊したり、ベルリンの国立歌劇場も爆撃を受け炎上、その後ウィーン国立歌劇場も爆撃のため瓦礫と化すなど、文化の象徴が数々破壊されていた。彼は既に齢八十を超えており、聴力、視力が減退するなかで書き上げたそうだ。実際に聞いてみると嘆きや哀愁という言葉だけでは収まりきらない、心に響く音の調和がある。
この様な陰極まる状況下でも、一点に光に目を向けることが出来れば状況は変わるのかもしれない。

“meta”、”morph(e)”という言葉には非常に深い示唆が潜んでいる。

メタモルフォーゼ Read More »

発想を変えんねんPart2

山口百恵 著 蒼い時の表紙

先日発想を変えることについてブログを書いた。簡単な概要を述べると、ここ数年、私は食事を「悪いものを避ける」意識を過剰にして食べてきていた。しかしある時食事は唯物論的に栄養を摂取するだけでなく、エネルギーをいただくものであるという認識に改め、食事中もその様に意識を変えたら、お腹の調子が良くなってきたという話だであった。ご興味のある方は、こちらのブログを参照されたい。

つい先日、キネシオロジーを共に学ぶ仲間達で集う練習会が催された。その際、筋肉反射テストでオラクルカードを引いてもらうことになった。まずはカードを選ぶ際のテーマを決める。こちらも筋肉反射テストで確認をしてもらうと「食べ方」が良いという反応が出た。
結果、選んでもらったカードは「Strength」であった。更に、そのカードの説明書きを見るとで特に大切な文章は「それでもなお、この”プロジェクト”があなたを指名しています」らしい。

オラクルカードのメッセージ”Strength”の説明書き

嗚呼、なるほどと膝を打った。最近食事中の発想を変えた私にとってぴったりの内容であった。しかも文章の冒頭は「このカードによれば、あなたは自分が思っている以上に強靭です。」とある。言い換えたら「あなたのお腹は自分が思っている以上に強靭です」だ。そうか、私はグルテンフリーを始めたあの日から自身の身体を貧弱であると思い込むことによって実際にそうなってしまったのだと納得した。引いてくださった当人には感謝の気持ちでいっぱいである。

その数日後、私は昼食後にあることを閃いた。例えば「あまり自分に合わなそうだ」というメニューが出てきたとする。そんな時は「そうだ、これは今の自身にとっての修正だ」と思えばいいと気が付いた。修正とは、ここでは詳しく触れないが気になる方は琉球キネシオロジーのYouTubeチャンネルをご覧いただきたい。この考え方は少し対症療法チックである気がしなくもないが、遊び心があって良いと思う。食事中における余計な恐怖心や思い込みの方が身体のバランスを崩してしまいかねない。本当に食べていけない物が出てきた時はその時は直感が働いてくれるはずだ。ということは何事も一期一会ではないか。何も人との出会いだけではない。今そこに出された、出していただいた食べ物も貴重な出会いである。その時は感謝の意を込めていただきます。である。
一周回って基本に立ち返るのだった。

私の最近のキーワードには楽観的ということがあるが、何事も「あれ、これで良いのかな」と感じたら「大丈夫、それが今の私にとっての修正だから」と囁かせれば良い。これぞ楽観。だから言うたやろ、発想を変えんねん。

発想を変えんねんPart2 Read More »

そのマッスルテストは正しかったか

韓国、釜山の街並み

セッションやペアを組んだ時、マッスルテストを行った時に時々感じることがあった。
それは「あの時行ったマッスルテストは正しかったのだろうか」と。
「あの時に出た反応、もしかしたらこっちじゃなかったのかな」「あれ、もしかして反応をみる時の確認方法を間違えてしまったんじゃないかな」
そんなことをよく考えていた。

そんなことを考えるのはやめた。
やり直すことはできないし、その時に戻ることはできないからだ。ではどうすればいいのだろう。
常に「その時」行ったマッスルテストがベストである様に取り組めばよい。
だが話はそんなに簡単なことではない。
一つ一つ進めばよい。その度無私になる。自身の思考を介すなどもってのほか。天に問うかの如く、反応を預かるのだ。
無私とは無欲であり、無心である。自身の頭脳で設計を試みるセッションなどたかが知れている。
型はあれど、常にその流れに身を委ねる。何も用意せず、その場に臨む。
出来ることは限られていて、そのマッスルテストを信じること。受け取ったことをそのまま相手に伝えるだけ。
閃きは考えて得るのではなく、降ってくるのを待つだけ。
解釈したくなったら、落ち着いて頭を空っぽにする。
完璧を求めたくなったら、今がベストだと受け止める。

これらを自然な流れであるかの如く行うために鍛練を積む。
そうしているうちに「そのマッスルテストが正しかったか」は「私の出した反応を信じる」に変わっていく。
正邪、善悪などと言っている間はまだ青いのかもしれない。二元論を超えた所に反応が存在する。
これが中庸なのかな、などと思うことがある。陰陽対極図にある白と黒の間。
潜在意識の深い所に暗く澱んだ錨が降ろされていようとも、真っ暗闇になることはなくそこに在る白色の丸い点は光をあらわす。ないと思えば見つからないが、あると思えば見つかるものだ。

そのマッスルテストは正しかったか Read More »

足るを知るキネシオロジー

味噌汁とお椀

キネシオロジーを学んでいると、今必要なものは思ったよりも自身の近くにあることを教えてくれる。
例えば、食べもの。家の中で筋肉反射テストをとってみよう。「今日の昼食で食べた方がいいものを教えて!!」と聞いたとする。自宅の中にある食材が反応することが多い。ないい倍は近所の飲食店のあのメニューかもしれないし、スーパーにある食材を買い足して家で何かを作るかもしれない。いずれにしろ、私の経験だと自身の近くにある何かが反応する確率が高い。

実は、無理してオーガニック食品を取り寄せなくても、こだわりのあの食材を手に入れなくてもいいのかもしれない。近所の農家のおばちゃんが無人で売っているその野菜かもしれないし、家の近くにあるお肉屋さんの牛肉かもしれない。筋肉反射テストで聞いてみると「あれ、こんな身近なものでいいの?!」と拍子抜けしてしまうことが多々ある。そうか、必要なものがあるからそこに住んでいるのか。
大事なのはその”食材”なのではなく、自身に必要なものは何かを知る、つまり自分を知ることなのだ。

キネシオロジーセッションに於いても然り。
修正反応が何か出たとしよう。何か特別な技能が必要なのかな、なんて思っていたら、そこにあるコーヒーを飲むことが修正であったりする。キネシオロジーそのものが「無理して背伸びしなくてもいいんだよ」なんて語りかけてきている様な気さえする。裏を返せば、そのメッセージは「基本に忠実でありなさい」と述べている様な気がしなくもない。

といった具合にキネシオロジーというものを介すると中々面白いが伝わってくる。
世の中に目を向けてみよう。世間を賑わせているニュースだって、元を辿れば必要以上の欲望に目が眩んでしまったが故に起きてしまったことが記事になっていることが多い。儲けることができるから戦争をするのだし、自身の領土を拡げたいから人を殺す。
あの少年愛おじさんは自身の性癖からくる欲望を追求し続けてしまったが故に騒がれているニュースの一つだ。歪んだ組織構造を築き上げた当人は死後になってから懺悔する時を迎えた。この事務所はどことなくヴァチカンの聖職者達と似ている。

大企業にも目を向けてみよう。その会社はそんな急に大きくする必要があったのだろうか。目の前の株価に目が眩んでしまったのだろうか。タイミングをみて、ゆっくりと大きくすれば永く繁栄する組織となり得たのかもしれないのに。
これらは皆、必要以上の欲望を追求したが故の結果だ。
何も遠い世間だけではなく、私たちの身の回りにも過剰な情報や誘惑といった形で欲望の沼が蠢いているではないか。そんな時はゆっくりと一呼吸。ペアを食うんで筋肉の声を聞いてみようじゃないか。何が出るかはお楽しみ。足るを知るを楽しもう。

足るを知るキネシオロジー Read More »

発想を変えんねん

立山の雄山神社から見た景色

私がキネシオロジーを学ぶ中で師ともう一人、この人には育ててもらっているなあと感じる人がいる。
彼は事あるごとに「発想を変えんねん」と言う。発想を変えるとは言うが、一体どこをどうすればええねん?ただ、キネシオロジー1年ちょっと続けてきて、やっと言葉の核心が分かってきた様な気がする。

ペアで行う、いわゆるセッション練習を行なっていると、度々詰まる場面に遭遇する。いかん、壁にぶつかった。どうすれば良いのだろう・・。そんな時は一呼吸置いて休みましょう。落ち着いたら再開だ。こんな時は発想を変えてみよう。今までの枠に捉われることなく、視点を変えてみよう。
筋肉反射テストで確認をする。ここじゃない、ここでもない、むむっ、この観点か?おっどうやらそうらしいぞ。一筋の光が差してきた。見方を変えたら思わぬ所に突破口を見出した。

先日私が取り上げた食事の話も同様だ。「悪いものをなるべく避けて食べる」ことと「エネルギーを得る為に食べる」こと。100日間、それぞれの意識で食事をしたら体へ及ぼす影響は大きく異なるだろう。日頃食べ過ぎで太ってしまっている人は前者でいいかもしれないし、日頃食事に神経を使い過ぎて訳もなく痩せている人は後者の意識で食事をした方がいいかもしれない。これもある発想の違いで食事をしていることになる。

発想を変えると言うのは英会話に置いても必要なことだ。
例えば「野菜を週5回食べている」と英語で言おうとしたが言えないとする。
正確に言うならば、”I have vegetables 5 times a week.”であるが、別にわざわざ週5回を持ち出さなくても、”I usually have vegetables.”にしても完璧な表現ではないが誤ってはいない。
「この表現はうまく言えないけれど、代わりに自分の知っている単語や表現で伝えるにはどうすれば良いのだろう?」
これは発想を転換して言い換えていると言えるだろう。
英語を学んでいると、「あ、こんなに簡単に言い換えられるのね」と思う場面に遭遇する。そんなに難しく考える必要はないねん。

これは発想を変えるトレーニングになると思う。
教科書通りや特定のフレーズ通りに言わなくても良いのだ。
人は思った以上に固定観念に囚われ、同じ行動パターンを繰り返しているものだと実感する。仕事では繰り返しのルーティンワークが発生しても仕方がないが、OFFの時間は行ったことなかった場所やレストランに足を運んでみたり、普段は聞かないアーティストの曲を聴いてみるなど今まで未経験だったことを体験することは発想の転換をする上で役に立つことだろう。
「あ、これとこれって似てるかもな」「すごい!世の中にはこんなことをしている人がいるのか」と感じるだけでも新たな発想を手に入れている。また、漠然と無意識下で思っていた点と点が急に結びついて線になることもあるだろう。

私の好きな言葉に、”直ぐ役に立つ本は直ぐ役に立たなくなる本 であるといへる。”という言葉がある。これは慶應大学元塾長であった小泉信三が自身の著書「読書論」で述べた言葉である。更に氏は同大学の工学部長であった谷村豊太郎が述べた”すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ”という言葉も引用している。

彼が言った「発想を変えんねん」という言葉は単純な様で奥深い。もしすぐに分かっていたら、すぐに役に立たなくなっていたかもしれないが、幸い肚に落ちるまでに時間を要した。

キネシオロジー然り、本物の何かを会得するには万物がそうである様に、多大な時間を要するものだ。
ここはひとつ、長い時間軸に身を置いて物事に取り組みたいものだ。

発想を変えんねん Read More »

民藝

大阪中之島美術館の民藝 MINGEI―美は暮らしのなかにある 展の入り口

先日大阪へキネシオロジーを学ぶ仲間の催す会へ行った。
その翌々日にその一人の仲間と大阪中之島美術館で催されている民藝の展覧会へ足を運んだ。”民藝”と書かれた暖簾をくぐった先にはこう書かれていた。

”私は何よりも普段使いの品が健全にならずば、この世は美しくならないと思う者です。”
柳宗悦「民藝の趣旨」『民藝四十年』岩波書店、1984年

心を打った。
今の世の中に対して、切実に訴えかけている様にも感じ取れる。
IKEAのガラスコップかDURALEXのガラスコップでいただく水では何かが異なるのか。
コンビニでもらったプラスチックスプーンでいただくカレーライスと銀製のスプーンでいただくそれとは何か違いがあるのだろうか。

私はこの言葉の重みを実感する。やはりご飯はお茶碗でいただきたいし、味噌汁は汁椀でいただきたい。
百均で購入したプラスチック製の器では何かが失われてしまう気がするのだ。

この会は日本における民藝運動の第一人者、柳宗悦や濱田庄司や河井寛次郎の蒐集品や各地の民藝品、日本に残る稀少となった技術や品々が紹介されている。
展示されている品々には独特な雰囲気を持ち、且つなんとも言えぬ美しさを持つものが多い。
どれも展示されているものは各地で普段使いされていたものなのだ。
美を中心に求めて作ったのではなく、日常使いに適したかたちを追求したらそうなった、いわゆる”用の美”を持つ品々だ。

私はキネシオロジーを学んでいる。私の師はキネシオロジーを用いて人を救う治療家である。
そこには医療でいう様な内科、外科、呼吸器科、泌尿器科、整形外科といった枠組みを用いて人を救う領域は存在しない。
師に言わせてみれば、なんでもござれである。但し、「本人に治る気があれば」の話ではあるが。

私は治療家を志してはいないが、キネシオロジーの”日常使い”には非常に関心がある。何故なら確かな筋肉反射テストの腕と自身の確かな志さえあれば、”治療”とはならずとも、人を救う可能性が拡がるからである。
師の領域から見た人を治す行為というのは、その人を悪さしていた原因を取り除くということである。そしてその”悪い気”が取り除かれるということは、それがどこかへ飛んでいったり、はたまた治療側が食らってしまう形となり、数日間体調を崩してしまう可能性があるということだ。
私はこの”食らって”しまうに耐えられる自信がない。そこまで自身の体は強くないと感じている。もし続けてしまったら自身の体が持たないことを感じている。
だから治療家に大いなる敬意を持ちつつも、自身がなろうとはとても思うことが出来ない。

しかし前述した通り、”キネシオロジーの日常使い”には大きな可能性を感じている。
私はここまで革命的なものに出会ったことがなかった。

私見を交えて述べると、キネシオロジーを用いた治療家となる為には、”強靭な肉体”を持つことが要求される。ここで述べる”強靭な肉体”とは、決して体力だけを指すのではなく、生まれ持った霊(心霊といった方が適切かもしれない)的な耐性、人を治療した後に跳ね返ってくる反動や深い領域に達した後のリカバリー能力が求められる。それは42.195kmを2時間台で走り切る体力やプロ野球選手になることとは全く別物の能力である。

そこには宿命という言葉も潜んでいることだろう。あるいは使命か。人はそういったものを宿されてこの世に生を受けている。こればかりはいくら覚悟をしたところで超えられるものではない。

民藝が「美は暮らしの中にある」と述べるならば、「キネシオロジーは暮らしの中にある」と述べて良いのではないか。
美は高価な絵画や超絶技巧の名人技だけではないというのであれば、キネシオロジーも決して治療のものだけではないのである。

キネシオロジーは暮らしの中に採り入れるとはいえ、それはぬるくていいですよ、という訳ではない。鍛錬そのものの強度は個々の耐性によるとはいえ、治療家やキネシオロジーを生業としようとする人との何ら変わりはない。施す対象は異なれど、基礎的な技術は同じ。ここがポイントである。師の述べる通り、「自分が整ってなきゃ人なんて診れねえよ」である。
何故なら日常に用いるにしても自身の身体がに狂いが生じていたらそのテスト自体においても狂いが生じてしまうからだ。
民藝のある日常においても同様である。特殊コーティングが施されていない木製のお椀を洗剤で洗ってしまったらいけないのだ。何事も基本に忠実である必要がある。日常だからといってそこにある一定の秩序は変わらない。相手(器や道具)を慮る気持ちは対象が人であろうとものであろうと変わらない。更にキネシオロジーについて語るならば、ものが発する声なき声を拾うことも上達の一助となるのは想像に難くない。

民藝品には作り手の数を重ねたからこその芸(わざ)が隠れており、キネシオロジーが質の高い”日常使い”へと昇華する為には量を積み重ねて質へと転化していく必要があるのだ。

民藝 Read More »

PhysicalとPsychological

ボルダリングをしている人

2つの単語、”physical”と “psychological”。

前者は”身体的に”、後者は”心理的に”である。

語源を調べてみると、psychologicalは”psychology(心理学)”の形容詞系、元を辿ると”魂の研究”を意味する現代ラテン語”psychologia”、更に辿るとギリシャ語で”息、魂、魂”を意味する”psykhē”とギリシャ語で”-の研究”を意味する”logia”を足したものをラテン語化したものが語源とされている。
physicalという単語は中世ラテン語(中世にカトリック教会で文語として用いられた)の”自然の、自然な”という意味の”physicalis”、更に遡るとラテン語の”自然の研究”という意味の”physica”という言葉が語源らしい。

出典:Online Etymology Dictionary psychology より

学問的な言葉には”-logy”という言葉が数多くつく。
physiologyは生理学、psychologyは心理学、biologyは生物学、考古学はarcheology、キネシオロジーは英語にするとkinesiologyだ。

“-logy”の語源は先述の通りギリシャ語である。

少しややこしいのは運動学、身体運動学とも訳されているキネシオロジーは人間またはそれ以外の生物の身体の運動の科学的研究を指し、
現在自身が学ぶキネシオロジーは一般には1964年にジョージ・グッドハート博士が開発したアプライドキネシオロジー(Applied Kinesiology)と呼称され、代替医療として分類されている場合が多い。

先日、キネシオロジーを学ぶ者同士で催す会にて指摘されたことがある。
それは私の筋肉反射テストは”とらえ(捕え・捉え)が甘い”とのことだった。
その課題はどう取り組めば良いのか。

物理的にガシッと腕と手を強く掴めば捉えられる様になる?

もちろんそんな単純な話ではない。

強くつかむことや握るといった物理的アプローチは解決方法ではない。

ではなんなのだろう?

その”とらえの甘さ”はどちらかといえば、心理的にとらえが甘いのだ。
心理的なとらえの甘さなるものの根源はどこにあるのだろう?

その人の言葉を借りるならば、それは自身の”在り方”に何かしらの原因があるのだ。

甘さという言葉から私が連想したのは”責任から逃れようとしている”自身の在り方だ。
今までの人生を回想していくと、具体的に何から逃れようとしているかが思い浮かばない。しかしぼやっとではあるが今までの生き方と関連している気がするというのは分かる。
”在り方”は言葉遣いの端々にも現れる。言動は今のわたしそのものだ。

それでは、筋肉反射テストを練習し続ければ”とらえの甘さ”を解決することが出来るのだろうか。

そうは問屋がおろさない。
それは量質転化の様な思考では逃げなのだ。素振りの数だけを単純に増やしても打撃が上達する訳では無いことと同じである。
たかが筋肉反射テスト、されど筋肉反射テストである。
その腕や手を押すという動作の中には自身の”在り方”が内包されているのだ。
つまり単純に見えるその動作で自身がバレてしまう。

師はいう。”自身が整っていなければ人を診ることなどできねえよ”と。

つまり筋肉反射テストの上達の本質は物理的動作や反復運動により改善ではなく、サイコロジカルにどう変わったかが結果として物理的な感覚として相手が受容するのだ。

そんなこんなで、私は宿題を課された。
physicalに、ではなくpsychologicalに変化する。

次回筆(キーボード)をとる時には、どの様な変化があるのだろうか。

PhysicalとPsychological Read More »

筋肉反射テストとインスタント味噌汁

テーブルの上にある味噌汁

朝、インスタント味噌汁を飲む。
お湯の適量は160mlと記載がある。当然、食べる時にお湯の量を計量したことはない。
特に何も考えずにお湯を注ぐと、”なんとなくこのくらいかな”という所で手が止まる。

そこでふと思った。「自然に注ぐことをやめた量が自身の適量なのではないか?」と。
つまりその手を止めた所が体の欲する量、いい塩梅なのではないかと。

これは無意識の行動であるが、もしかしたら潜在意識が無意識を経由(?)して「ここだ!」と無言の声を発して手を止めさせたのかもしれない。

ここでふと思い出したのは、筋肉反射テスト(以下MT)のことである。
MTは心や体の状態によって身体(筋肉)に力が入る時と力が入らない時があることを応用し、潜在意識からの声を聴くことが出来る。
基本として自身の体の反応を取ってくれるパートナーが必要である。
一人でMTが行えなくとも、「注ぐお湯を無意識に止めたタイミング」の量は、もしかしたらMTで「今の飲むインスタント味噌汁のお湯の適量を教えて」と聞いた量と一致するかもしれない。

仮に上記の量が一致していると仮定して、この量の一致を生み出すには一つ重要なポイントがある。それは、考えながら注がないことだ。
「今の私に必要な量はこれくらいかな〜」、「いや、今は濃い味を欲しているからお湯は少ない方が良いのではないか」などと考えて注いではそれはただ自分の表層的な顕在意識を介している為、心と体の声を反映することは出来ない。

とはいえ、混同してはならない要素がある。それは「中毒」だ。依存性の高いものである。
中毒性のあるものは非常に多い。覚醒剤に代表される違法薬物、マイルドドラッグとも称される糖質、SNSなど枚挙にいとまがない。
これらを一度摂取(閲覧)してしまうと、「無意識」でそれを探し出していたり、手が伸びてしまっていたりする。つまり、「無意識でお湯を注いでいた手が止まっていた」のと「無意識で覚醒剤に手が伸びてしまって」いたというのは、だいぶニュアンスが異なる。

この出来事を通じて、思い出した現象があった。

以前、似た様な内容でブログを書いた。カフェで無意識のうちに一番先にメニューで目に入ったレモネードを注文したという話だ。
一般的に考えればチェーン店で頼むレモネードは多めに砂糖が入っているとの予想がつく。私は白砂糖の入ったものは控える様にしていた為、自然と選択肢からは外れていた。
しかしメニューで一番最初に目が入ったので、試しに頼んでみたところ、案外悪くなく、そのカフェではいい時間を過ごすことが出来た。

その時、何故レモネードが一番最初に目に入ったのか。それはメニューの中では一番欲していたから、最初に無意識にレモネードが最初に目に入った可能性がある。
これは味噌汁を注ぐ時に「手が止まったタイミング」と「一番最初に目に入ったレモネード」現象は同様の「無意識」から生まれたのではないか。
しかし、先述したとおり砂糖には中毒性がある。つまり、「依存」に反応した可能性がある。むむっ、これはどっちなんだ?

その他の例。炭酸水を飲もうと、コップに注いだとしよう。自身はコップ3/4くらいに注ごうとしたが、気付いたら半分注いだ所で辞めてしまっていたとする。
もし、「あれ、もう少し多めに注ごうと思っていたのに!」という状況であれば、これは心と体がコップの半分が適量であった可能性があるということだ。

私はここ数年、考え過ぎが原因で心身のバランスを崩していた。
その時は本当に食べたいものではなく、「今の私にはきっと野菜が必要だ」や、「この治療法、サプリメントが必要なのではないか」と考えて実行することで、更に体や潜在意識の声と逆行して更に体調を悪化させていた。

キネシオロジーを通じて、「なんとなく」や「自然に体がそうしていた」が実は身体や心のバランスを取っていたということに気付いた。

「日常は筋肉反射テストで溢れている」

こんな視点に立つと、筋肉反射テストがより身近な存在になる気がする。

筋肉反射テストとインスタント味噌汁 Read More »

反応

由比ヶ浜から見た逗子マリーナの景色

久米島から帰ってきて、2週間が経とうとしている。
正直、私の体調は安定しない。帰宅直後は眠りに眠り続け、またお腹の調子がイマイチだ。風水のせいにしたくはないが、気は悪い。

半日だけ、沖縄に滞在した。師はそのお店で一番高いステーキをご馳走してくれた。ご馳走様です。その後私のフライトが近付き、車で那覇空港まで送ってくれた。その到着しようという直前、ドラゴンセレナ内にて”今回の日記を書いてよ(台詞は定かではない)”と言われた。私は何の文章を書けば良いのかと分からず、”長くなりますけど、いいですか。”と生返事をした。

そこから何となくその言葉が頭から離れない。
そして私は最近からその長期滞在に関する事柄を文章にまとめることにした。
以前の私は文章を強迫観念で書いていた。

今回は違う。なんとなく書きたいから書いているのだ。

書いてみると、自分の異なる人格が現れてくる。その文体は私であって私でないみたいだ。まるで二重人格。私の脳内のカオス具合が分かる。
そう、私はやや多動不注意の気があるのだが、それを隠しているのだ。
実際に私はそのことについて話すと、”え、本当?とても落ち着いている様に見えるのに”と言われることもある。それは仮面の私である。

長期滞在を通じて、自宅へ戻ると色々な変化を感じることが出来た。同時に両親と間にあった、溜まりに溜まった膿を出すかの様にお互いの不満が噴出する出来事もあった。

常に清濁は併せ呑むものである。

そのうちの一つは、

パッと最初に目についたもの

である。
実はその、なんとなく目についたものは潜在意識が欲しているものであるという可能性だ。

レストランのメニューを見た時の食べもの、カフェのメニューを見て最初に目に飛び込んできたドリンク。
”今日はこれを頼もう”と事前準備をしたのに、目に入ってくるものが違う。

それは、顕在意識が事前に”これを頼もう”と決めていても、潜在意識は違うものを求めているかもしれないというサインである。

久米島から帰ってきて、それに気付いた。

これを食べようと冷蔵庫の中をみて、最初目に入ってきたのはそれとは違う食べ物。

上島珈琲で紅茶を頼もうとしても、メニューで最初目に飛び込んできたのはレモネード。

ちなみに私は、白砂糖が入ってそうな食べ物や飲み物をだいぶ控えていた。

しかし久米島から戻ると、柔軟性が出たのか、”まあいっか”と思う様になった。

そして甘そうな・・レモネードを頼む。実際に甘い。
嗚呼、悪くない。頼んで正解だったかも。

Mr.Children風にいえば、”およそ期待していた通りのあれが僕を締めつけた”の逆である。

反応 Read More »