天橋立傘松公園から見た天橋立

教えることは教わること

教えることは教わることだと思っている。
教えることによって気づきを得て、学びが深まる。更に教えることによって深まった知見が教えるという行為の質として還元される。そんなサイクルがある。

私もオンライン英会話講師になって、教えることは教わることだと再認識している。生徒さんから教わることは多い。例えば小学生の柔らかい発想に触れると「そうか、こんな言い回しがあるのか」といった所感や彼らが純粋に感じたままで授業に向き合う姿を見て私が「もっと感じたことそのままを言葉にすればいいのか」と逆に感化されることもある。こういうことが多々あると、とても「オレが教えてやっているんだぞ」という一方向だけの考え方にはならない。
特にこの一方向は学生スポーツの指導者にまだまだ多い様な気がする。私が野球という道を歩んできたからかもしれないが。

10代前半のNY在住の男の子は私よりも全然発音がいい。彼は少しけだるそうな雰囲気でにレッスンを受けているが、クールな感じでいつもシンプルな表現をしている。その度に私は「こういう言い方をすればいいのか」と学んでいる。私は生徒なのだ。レッスン後は彼の発音が良いからなのかは分からないが、次のレッスンでの私の発音が良くなった気がする。これは恐らくプラシーボ効果ではなく、実際に良くなっている。これはレッスン前にネイティヴの発音(映画、YouTube、スポーツ中継などなんでも)を聞くとその直後自身のスピーキングの発音が良くなった気がすることと同じである。
つまり私は生徒さんから学習している。

積み重なる成功体験も貴重な学びである。
ある外資系企業に勤める生徒さんは使える単語は多いのだが、正確に伝えようとしすぎてしまい、どこか単語の使い方がぎこちなく、度々詰まってしまうことがよくあった。
これはよく日本人の生徒さんにあるパターンである。
そこで私は「十分にお話するだけの単語をご存知ですし、言いたいことは伝わっています。もっと口から出まかせぐらいの気持ちで話しましょう」と幾度か伝えた。その方はほぼ毎日受講してくれて、1週間程すると当初の力みが取れて、簡単な表現で言葉の詰まりがだいぶ取れてきた。2週間程するとだいぶ会話にリズムが生まれる様になった。これは一種の成功体験である。「このような方には口から出まかせで適当に喋ってもらうくらいがいいのだな」という知見が蓄積される。

最近誕生日を迎えた男の子はプレゼントに包丁を買ってもらったそうだ。既にマイ包丁をいくつか持っているほど包丁が好きだそうで、ある日私は生徒となって包丁の種類について教えてもらうことになった。まずは包丁の種類について教えてもらう。お互い同じウェブサイトを開いて、それぞれの違いについて教えてもらう。「牛刀ってなに?」と聞くと「これは片刃包丁で、〜が特徴で〜」といった具合に図を見ただけでは分からない特徴を教えてくれる。しかも、牛刀でも刺身を切るのには割合適している、といった食材に対する包丁の持つ互換性まで把握している。とても分かりやすい解説に私は感心してしまった。

また、時々私よりレベルの高い生徒さんがやってくる。正直、なぜまだオンライン英会話で学んでいるのかがよく分からないぐらい英会話の上手い方である。当初はこちらが戸惑いながらレッスンを進めるのだが、最近は開き直ってお互いが楽しめる様な雰囲気づくりに努めるようにした。
それでも低評価をつけられてしまったら仕方がない。そうした方々との経験を積むことで、次回同じ状況が来ても段々動じなくなる。これも生徒さんから教わる、ということなのだろうか。

教わるというのは、生徒の立場で先生から学ぶこともあれば、先生側から生徒に学ぶこともある。また、ふとした瞬間に気づく学びもあれば、経験の蓄積から得られる学びもある。けっして一方向だけではなく、双方向であり、多方向でもあり、突然降ってきたりもする。
教えることはアウトプットのように見えて、インプットでもある。教わることはインプットのように見えて、アウトプットでもある。

どちらの立場にいても基本は変わらない。礼節をわきまえ、相手に敬意をはらうこと。確かな姿勢があればお互いに有益な時を過ごすことが出来る。