私の強迫観念との付き合いは5歳の頃にまで遡る。親の話によると、当時住んでいたアパートの階段で登る足を決めて、その足で登れなかったらもう一度登り直さなければいけないということを既に行なっていたらしい。
私の顕在意識に残っているもので一番古いのは、小学生の頃。近所の道には、100m弱に渡ってマンホールの様なものが一定間隔で置かれていた。当時の私はそれを決められた足で渡ることが出来ないと、”これでいいのだろうか”と真剣に考えて不安な気持ちになっていた。時には周囲に怪しまれない様に決めた足で渡り直していた様な気がする。また、これは自転車で通る時も同様で、”マンホールの右半分のここらへんを通る”と自転車の前輪がその決められた場所に通らなければいけないということを行なっていた。こちらも同様、決められた場所をうまく通ることが出来ないと、謎の不安感が襲ってきて、場合によっては再度やり直す。当時の私は、”何故こんなことをしなければならないのだろう”と苦しみつつも、理由が分からずに続けた。
また、これは現在も気付かぬうちに行なってしまうことがあることがある。私は飛蚊症であり(皆持っている?)、それ自体は大したことではないのだが、その飛蚊症の”蚊”で目線を動かしながら”く”の字を作っている。私はこれが出来ないと再度”く”の字を上手く描ける様に目線を動かし、”理想的”な”く”の字に苦心する。
ギリシャに数ヶ月クルーズ船で勤務をした時は、”毎日ブログを更新しなければならない”と自身を強迫し、非常に苦しんだ。せっかく皆が憧れるサントリーニ島で日中丸々休憩時間が与えられても、”休憩時間中ブログを書かなければ更新することが出来ない”となり、貴重な時間をあまり楽しめないということを経験した。
その他にも、どうでもいいことなのに勝手に内面で作られたルーティンを守れないことで発生する”これで良いのだろうか”という不安感は数多くある。本当にこれらから逃れたいと思っている。そしてこれらは減りつつある。
思えば、グルテンフリーもその一種であった。私は2019年5月から2021年12月まで”ほぼ”グルテンフリーの食生活を実践していた。許容範囲としたのは味噌や醤油に含まれる小麦や、揚げ物の衣等だ。グルテンフリーという言葉を初めて認識したのは、恐らく2016年頃に読んだテニスプレイヤーであるノヴァク・ジョコビッチ選手の著書が初めだと思う。グルテンフリーを開始する数ヶ月前、私は前職を肉体的・精神的疲労を理由に退職しており、気力に乏しく踏ん張りが効かない状態が続いていた。そこで私は何を思ったか、”グルテンフリーを実践すればコンディションが上向くのではないか”と考えた。実際に実践してみると、まあ悪くはないのだろうが、如何せん制約が多過ぎる。小麦製品がダメとなると、外食が非常に厳しくなる。もうイタリアンは無理。ラーメンもだめ。ちゃんぽんもだめ、餃子もである。人付き合いも悪くなる。
今思うと、”グルテンフリーをしていても、私は今調子が思わしくないんです”という根拠がある様でない予防線を貼っていた様である。制限のある食事法は続けられずに辞めてしまう人も多いそうだが、私の場合は”強迫観念”という武器を所有している為、ある程度続けてしまうと辞めるタイミングの方が難しくなってしまう。1年も経てば、”ここで辞めてしまったら、更に体調を崩してしまうのではないか”という不安が勝り、”だったら、続けなければならない”という強迫が勝るのだ。
結果的に2021年12月まで続ける訳だが、止められるタイミングがあって本当に良かったと感じる。世の中にはタバコや薬物中毒を止められずに苦しむ人がいる。私は先に挙げた食事制限や、”白砂糖は体に悪い”などと理由を付けて、何かを摂取することを制限してそれを続けてしまうことが多かった。言い換えるならば、引き算的アプローチの継続である。しかし、世の中の人は甘いものや極端に辛いものの食べ過ぎなど、何かを過剰な摂取を続けることを止められない、”足し算的”アプローチの継続をする人も数多くいる。
一見すると、”足し算”と”引き算”は対照的なアプローチであるが、両者とも”依存”という共通項が垣間見える。
依存とはなんであるかを辞書から参照したいと思う。
い‐そん【依存】
(イゾンとも)他のものをたよりとして存在すること。「親に―した暮し」
つまり、”足し算”であれば、”摂り過ぎ”をたよりとして存在し、”引き算”であれば、”何かを制限すること”をたよりとして存在しているということになる。
私の場合に置き換えると、タバコを吸ったことはなく(大学の頃、吸おうとしたらむせてしまって断念したことはあった)、嗜好品に溺れることは少なく、どちらかというと常に”引き算的アプローチ”に偏りやすい傾向があった。この根源では先に述べた通り、思い当たるのは強迫観念由来のものである。食事関連であれば”これを摂取することを止めなければ、何かが良くならないのではないか”、行動であれば、”この階段は右足から登らないと、何か良からぬことが起きるのではないか”といったものである。
ここで強迫観念が先か、依存が先かなどと考えてみたが、埒が明かない。当たり前だ。何故なら強迫観念にしろ、依存にしろ、それが発生する原因があるからだ。原因の捜索が先だ。
私の場合、原因を捜索する為に非常に役に立った書籍がある。それは、内海聡医師の著作、「心の絶対法則」という本である。詳しい内容は本書に譲るが、私の場合、行き着いたのは同書にあった、”我々の精神パターンのほぼすべては0〜5歳程度の年までに形成されている(内海聡.”第7章「全人類アダルトチルドレンの絶対法則」”.心の絶対法則 なぜ「思考」が病気をつくり出すのか?.2020, p.104”)という記載である。本書の述べる精神パターン、つまり私でいう”強迫観念”は0〜5歳程度の年までに形成されている可能性があるという点だ。私は結果的に、本書をきっかけとして内海聡医師の診療を受けることを決意し、結果的にこの診療がグルテンフリーを辞めるきっかけとなり、強迫観念形成のヒントを掴み、軽減することが出来た。
ただ、現在も自身では不要と感じている強迫観念に迫られることは多々ある。そしてそれは0歳〜5歳の間に形成された精神パターンだけではない可能性があることを知ってしまう。平たくいうならば、スピリチュアル領域からの原因である。そのきっかけを与えてくださった方こそ、慶太さんこと齋藤慶太氏であり、氏のキネシオロジーであった。
2022年強迫観念の旅は続く。
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