桶狭間の戦い ~The calm before the storm~

【二十四節気:啓蟄(けいちつ:3/5~3/19頃】
啓蟄(けいちつ)とは、土中で冬ごもりをしていた生き物達が目覚める頃のこと。
生き物たちは久しぶりに感じる爽やかな風と麗らかな春の光の中で生き生きとしています。

【七十二候:桃始笑(ももはじめてさく):3/10~3/14頃】
桃のつぼみが開き、花が咲き始める頃。昔は“咲く”という言葉を“笑う”と表現したそうです。ゆっくりと開いていく桃の花は、ほほ笑んでいるようにも見える。

こんばんは。
さて、七十二候の桃始笑は今日で終わり。明日からは末候を迎えます。

昨日は全社でのミーティングがあり、社長のお話を聞きました。
私はこのおミーティングでのお話が、1ヶ月に一度の楽しみの一つ。今回も素晴らしい時間だと感じました。

あまり詳しくは言えませんが、一つ言えるのは今年は勝負の年だということ。
昨日の社長はまさに熱さを秘めた戦国武将。その身には鎧兜を纏い、右手には軍配を持った姿がはっきりと見えました。
今はその戦の前の、嵐の前の静けさといった所でしょうか。
私は、この嵐の中を越えた先の勝利を勝ち取りたい。そう強く感じました。

ここに入って良かった。

心からそう思いました。

さて、前振りが長くなりましたが、本日はそんな全社ミーティングの中のお話を一つ。
昨日は桶狭間の戦いについてのお話がありました。

桶狭間の戦いとは、1560年に尾張国(今の愛知県)の桶狭間で行われた合戦です。
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、4千~5千の軍で対する尾張の大名織田信長。
数的に圧倒的に不利であるにも関わらず、少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍の進出を阻止しました。

桶狭間の戦いを調べてみると、とても面白いことが分かりました。
下記は面白いと感じた部分です。

・信長は当時27歳であった(義元は41歳)。
・信長は情報管理(情報が漏れるのを防ぐ為に、会議での発言を控える)、情報収拾(情報網を張り巡らせる)、情報活用に非常に優れていた。
・織田側から今川側へ寝返った武将達がいたが、信長は、寝返った武将の筆跡を真似し、ニセの手紙を今川軍に送り、あたかも寝返った武将が織田軍と通じているかのように勘違いするように仕組む。それを見た今川義元は武将達を疑い全員切腹させてしまった。
・信長は相手の数を減らすのではなく、義元の首を狙うことに集中した。
・自軍で囮作戦を有効に活用し、今川軍の物理的な兵数をうまく分散させて、義元のいる本陣を手薄にした。
・少ない兵が残っている砦に自軍ののぼり(旗)を立てて、そこに陣を張っているというフェイントを仕掛けながら移動して、今川軍の本陣に近づいた。
・当時は大将の首を取った者が最大の功労者とされていたが、今回の戦いでは首を取った者では無く、”今川軍の本陣が桶狭間で昼食を取っている”という勝利のターニングポイントとなる情報を持ってきた者に最大の褒美を与えた。
→当時の常識を覆す出来事だった。

信長は柔軟な思考を持ち、既成の価値観や概念に囚われない勝負師であったという人物像が浮かび上がってきます。

上記のエピソードの数々は、現在にも通じて活用出来ることばかりだと思います。
つまりいつの時代を経ようとも物事の原理原則は変わらず、生きる上でしっかりとした戦略が不可欠であるということです。

歴史上の出来事から学べることはとても多いですね。
桶狭間の戦いを調べたら、急に戦国時代に興味が湧いてきました。

何事も知れば面白くなりますね。

それでは。