1つのニュースがある。
それを今、webブラウザで見ようとすると、同じ内容で複数のニュースサイトから見ることが出来る。大抵検索結果の上位に表示されるサイトは二次情報であることが多い。それは情報源が別にあって、そこから引用をして記事をまとめたものである。つまり、情報源さえあれば、誰でもそのソースに即した文章を作ることができる。
また、三次情報として作り上げられたものが検索の上位に上がってくるものも多い。三次情報という言葉は辞書には載っておらず、基本的には情報源が定かではない情報を指すことが多い。芸能人に関する根も葉もない噂をまとめているウェブサイトは三次情報にあたる。
一次情報という言葉を広辞苑で調べてみると、「実態調査・アンケート調査・実験などにより直接集めた情報。図書情報では、論文や資料集など研究活動から生み出されたそのままの情報。」とある。
二次情報という言葉を調べてみると、「一次情報を検索や流通に便利なように要約・整理・加工・再編成した情報。」とある。
もし一つのニュースを読むとして、より正確な内容の記事を読みたいのなら何が良いのだろう。それはそのニュースを実際に見た人が言及したことを見たり聞いたりすることだろう。そうした直接観察した結果や生の声など、加工されていない情報も一次情報に分類される。つまり何かの出来事の当事者となれば一次情報を得たことになる。「ラーメンを食べて美味しかった」「事故が起きる瞬間を見た」「岸田総理大臣の発言をその場で聞いた」のであれば、それは一次情報である。
「あそこのラーメンは美味しかったと友達が言っていた」のを聞いた、もしくは記者が実際に見聞きした情報をまとめてそれをニュースサイトで閲覧としたしたらそれは二次情報であり、「あのお店のラーメンは美味しいらしいよ(情報源不明)」は三次情報である。
より活きた情報を得るならば、一次情報を得ると良い。一次情報のその瞬間は写真か何かで切り取ることが出来ても、その場の空気感や雰囲気は当事者にしか感じることが出来ない。そこには、言葉だけでは伝えきれない情報、非言語の情報も多分に含まれる。
小難しく書かなくとも、私達は常に一次情報に触れている。立ち寄ったカフェのコーヒーが美味しかったのであればそれは立派な一次情報であるし、文章を書いている最中、握っているペンの感触も一次情報、鳥のさえずりを聞けばそれは音声の一次情報だ。
それでは何故、人は二次情報に触れているのだろうか。それは自身が直接見聞きしたもの以外にもっと知りたいことがあるのかもしれないし、生活する為に必要だからかもしれない。
新しい一次情報を得られる行為に、旅行がある。普段の生活とは異なる新たな一次情報を得ることができるだろう。
二次情報には質が存在する。一概に善し悪しを決めることは非常に難しいが、インターネットの普及によって爆発的に情報量が増えた。コンピューターが普及していない時代では海外の文献を手に入れるだけでも一苦労であっただろうし、海外で起きたことをニュース記事でしかも英語でとなると海外紙を購読しなければフレッシュなニュースを得られなかったはずだ。
インターネットの普及によって一般の人々も情報を発信することが容易になった。今までは限られた人々しかマスへ発信することができなかった。少なくとも、そういった文章は推敲され、第三者のチェックをが入るというプロセスがあった。だが今は他者の確認を経ずとも情報の発信をすることがより容易となった。その場の感情に身を任せて書き連ねたものも、個人情報を曝露してしまった文も人の目に触れさせることができる様になった。
一次情報は生の情報、つまり体感に直結することが多いのでより確かで豊かな情報を得たいのであれば現場で感じることが何よりだ。
問題は二次情報だ。広辞苑にある様に「一次情報を検索や流通に便利なように要約・整理・加工・再編成した情報」の摂取は手触りのないものが増えてきた。以前は書籍や紙の媒体そしてテレビやラジオといったメディアが主であったがインターネットの普及によって濃度の非常に薄い媒体が更に増えた。
いや、元々非常に薄い媒体は多かったのであるが記者や作家といった専門職だけではなく一般人が同じ土俵に立てる様になったが故である。
もちろん一般の方にチャンスが広がったと言えるし、一般の方のプロへの道を多いに広げるものになるかもしれないが、残念ながら現在は濃度を薄めてしまっている方に寄与してしまっているのが現状だ。
私は二次情報の底上げこそが現在抱える課題の打破に繋がるのではないかと考える。