経験とは、段階を踏むことではないか

おはようございます。本日はギリシャのクレタ島、ソーダ港に到着。
先日からお伝えしている通り、7月より航路を変更する為、一旦クレタ島ともお別れ。
一番お気に入りの島ですので、少し寂しいです。
9月にまた戻れることを楽しみにしています。

今日もクレタ島産人参を購入しようと思います。

現在、再度「7つの習慣」を読み直しています。
そこにはこうした言葉が並んでいました。以下引用です。やや省略している箇所があります。

「全ての生命に、成長と発達のしかるべき順序がある。」
「人生の様々な段階で能力を開発するのも同じである。ピアノが弾ける様になることも、同僚とうまくコミュニケーションを取れる様になることも、段階を踏まなければならない。これは個人にも、夫婦にも家族にも、組織にも当てはまる原則である。」
「千里の道も一歩から」「何事も一歩ずつしか進めない」

こうした言葉から、私は「経験とは、段階を踏むことではないか」という解釈を得ました。
私達はよく、「何事も経験だよ」とか「経験を積ませる」とかそういった言葉をよく耳にするかと思います。
私も「経験」という言葉自体はよく使っていましたが、そこまで深く考えていませんでした。

しかし昨日ふとこのフレーズを読み直した時に、「そうか、段階を踏むことが経験なのか」ということに気付きました。

つまり成長をしたい場合は、正しく段階を踏むことが必須になる訳です。
赤ちゃんに例えると分かりやすいでしょうか。
まずはハイハイを覚えてから、段々と立って歩ける様になるプロセスを踏む訳で、逆はありません。

つまり自然なプロセスを無視したら、いつまでたっても成長することは出来なくなってしまう訳です。
必ず通るべき道がある。だから近道はない訳です。

こうして考えてみると、物事がよりシンプルに見えてくる訳です。

もう一つ例を出してみましょう。
何故筋道を立てて説明をするかというと、その説明を理解してもらう為に必要なポイント、順序があるからです。順序が逆になってしまったら、理解がより難しくなってしまう。もしその説明が分かりやすければ、それは正しい筋道を立てられているからでしょう。そしてそれを人々は「論理的」と呼ぶのでしょう。

経験という言葉に対する解釈がより深まった一日でした。

普段使っている言葉を掘り下げることで、一段深まった考察を手に入れることが出来ました。

まずは今私の行なっていることが正しく段階を踏んでいるのかを確認し、

正しく段階を踏む様なプロセスを作り上げて行きたいと思います。