宇宙にある人工衛星

2022年強迫観念の旅2

まだまだ尽きない強迫観念のケーススタディ。
それは読書にも及ぶ。

私はKindleの白黒版(Paperwhite)を愛用している。
これはいわゆる紙の本と異なり、例えば寝る前や起床後にスマホ感覚で片手で内蔵された書籍を読むことが出来るので、非常に重宝する。

私の場合、寝っ転がりながら両手を使って本を読む気を起こすのは難しい。この寒い時期なら尚更だ。寒気が羽毛布団と身体の隙間から入ってきて寒い。その点Kindleは布団に潜りながら読めるし、暗くてもバックライトがついているので安心だ。

デジタル・ミニマリストを読んで以来、極力布団でスマホをいじるのは避けている。更に言うならば、寝る時にスマホは寝室のは置かずにリビングに置いておいて、手の届かない様にしている。目覚めてもスマホが手に届く場所がない!!時には時間泥棒と化す彼(彼女?)と物理的距離を保つ恩恵は大きい。

その点Kindleであれば寝る前や起床後にスマホをいじる様な罪悪感を感じることがない。何故なら私は読書をしているのだから。そのまま勢いでネットサーフィンをして20分経ってしまった・・。なんてこともない。動きがやや鈍いのが玉に瑕だが、少しアナログ感のある所に愛嬌を感じる。

といった具合にKindleのメリットを書き綴ってきたが、実は強迫観念の観点からだと一つ大きな問題がある。それは、”その知らない単語調べなきゃいけない”問題だ。これはKindleにおける非常に大きなメリットであるのだが、分からない単語に出くわす度、”この単語を調べなきゃ次に進んではいけないのではないか”という強迫観念がやってくるのだ。馬鹿みたいと思う方もいらっしゃるだろう。しかし、強迫観念という言葉を調べると、「馬鹿げているとわかっており、考えまいと思っても頭から払いのけることができない考え。(引用:広辞苑無料検索 大辞林 きょうはく-かんねん【強迫観念】 より)」とあり、確かに馬鹿げているのだ。これは読んでいる時の気分によってムラがあり、”今回は調べなくて良いや”という時もあるし、”いや、今日はきっちり調べて覚えなければ”と思う時もある。

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坐禅へ伺ってから、日本仏教の宗派の歴史を学ぶ筆者
私の地元は禅寺界の重鎮だらけじゃないか!・・と今更気付く

当たり前であるが、紙の本で分からない単語を長押ししても急に意味が出てくることはない。例えば”エジソン”という言葉の部分を見て、Kindleを読んでいる最中ならば”彼の生年を調べなければならない”といった余計な声なき声が出てくる所であるが、紙の本で”まあいいか”と思える可能性の方が高いという点で助かっている。強迫観念の出現率という観念から見ると、紙の本の方が優秀(?)である。ただ、読書中近くにスマホがあると”調べなきゃ君”が出てくる可能性が高い。この時もスマホとPCを遠ざけておくと良い。

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”エジソン”を長押ししても意味が出てこない

これも小さな頃から続く習慣である。小学校の頃、コロコロコミックを毎月読んでいた。漫画を読んでいる最中、”もう一回戻って読まなければいけないのではないか”、”ここのセリフをもう一回読み返さなきゃ”などと訳の分からない観念が飛び出してきて、私を苦しめる。

新聞もそうだ。小学校の頃はスポーツ欄を好んで読んでいた。プロ野球のページには結果だけでなく、その試合の選手の個人成績や打率や防御率の個人ランキングなども載っている。こちらも同様、”この選手の現時点の打率を覚えなきゃいけない”、”何打数何安打で打率何割なんだ”といった具合に”読まなきゃ君”がどこからともなくやってくる。

本当に馬鹿げている。リラックスさせてくれよ。当時の私はそう思っていたに違いない。

何故この様なことが発生してしまうのか。それはどうやら”自分が苦しまなきゃ”いけないと潜在意識に刷り込まれてしまったことに一つの原因がある様だ。これは生まれてから幼少期に刷り込まれた後天的要素。しかし、”私は自分が苦しまなければいけない”という道を選択したという、先天的要素がある可能性もあるのだ。

言っている意味が分からないだろう。私も分からない。その先天的要素とは何か。それは”神との契約”である。ああ、筆者はつまり強迫観念をスピリチュアル要素のせいにしたのだな、なんて声も聞こえてきそうだ。そうなのだ。

”神との契約”とは、何なのだろうか。平たく言うならば、”生まれてくる前、自身はその親、その場、その境遇”を選択してきたということである。この”神との契約”に沿って述べるならば、”強迫観念のある自分を選んで生まれてきた”ということになる。当然ながらそんなことを知る由はない。しかし私はこの言葉を今は信じたいと感じている。では何故、私は強迫観念のある自分を選んできたのだろうか。それは、乗り越える為の試練であるからだ。つまり強迫観念は何かのトレーニングなのだ。”何かをしなければならない”のだから、その”何か”を達成した時、私は少しその”何か”に置いて成長しているのかもしれない。

事実、強迫観念なのかは分からないが、私は昨年、”TOEICで一定の点数を取らなければならない”という観念に対し、1ヶ月半の徹底した勉強によって、上位約3.5%の得点にまで達した。”得点”という観点からすれば私は成長したことになる。見えない誰か(自分?)に”無理強い(強迫)”されることによって、それは訓練、トレーニングとなり、成長に繋がった。人それぞれに成長パターンはあると思う。”楽しい!”と感じることをそのまま続けて成長する人もいれば、自身で”これは達成したい”と心から思うことを目標に据え、そのプロセスで成長する人もいる。また、厳しい掟の下、外的な”強迫”によって鍛え上げられ(例えばとても練習が厳しい全国大会常連校の部活)て成長する人もいるだろう。たまたま私は、生まれてくる前の”神との契約”で、その訓練を授けてくるヤツが自分の内側にある”強迫観念”であり、その契約書にサインしただけの話だ。それで良いじゃないか。

一つ”神との契約”という概念を使ってはいけない時、タブーがある。それは、自身が親になった時だ。生まれてきた子供に対して、”お前がオレ達、私達を選んで生まれてきたんからな!”と考えることだ。

これでは元も子もない。

この夏、私は”神との契約”と言う概念を久米島滞在中に知った。更に嬉しいことに、私は今、頭に浮かんだことが強迫観念なのかを判別する技能を手に入れた。しかもそれは、上達すればする程、その強迫観念を生じさせてしまった根本の原因までをも、潜在意識を介して探ることが出来るのだ。私はまだまだ、その技能を鍛えている途中だ。
その名を”キネシオロジー”と呼ぶのだが、それは頭に”琉球”を付ける必要があるのだ。どうだ、ますます訳が分からないだろ?

齢三十にして、私は大きな武器を使わせていただく機会を得た。

この武器を手に、強迫観念の旅は続く。

画像出典:PaopanoによるAdobe Stockからの画像