お刺身の盛り合わせ

仮名の間

日本人はたくさんの間を包含している。
それは目に見えないプロセス、コミュニケーションの細かな言葉にならない差異。
マニュアルでは伝えきれない機微の数々。
それは自身で感じて、実践するしかないのだ。

その目に見えない何か、言葉では伝えきれない何かは日本語という言語が可能にした。
かな文字の発明で大きく変わったのではないか。漢字だけではストレート過ぎる。
中国語は漢字だけ。英語ではアルファベットだけ。
ストレートな表現になる。
かなを持つことで、日本人は柔らかくなったかもしれない。
日本人が中国の方や英語話者達の表現が率直過ぎると感じるのはそこにあるのかもしれない。
日本人が戸惑いを感じるのはそこかもしれない。
そういう意味では、中国とアメリカにおけるストレートさというのは共通項の一つなのかもしれない。
その率直さ、ストレートさ故に覇権を争っているのかもしれない。

私達が英語を使う時、自身の心の内をより正確に、誤解なく伝える為に副詞を使いたがるのは率直に伝え過ぎると失礼にあたると身構えてしまうからなのではないか。
相手に不快な思いをさせたくないのではないか。
英語はSVOCである。伝えたいことから単語を並べる。無理やり副詞をねじ込むと相手はかえって混乱をする。
本音の輪郭がぼやけてくる。あれ、伝えたいことはなんだっけ?
それでいいや、その曖昧さを楽しみましょうや。

ドイツの哲学において、唯物論よりも観念論が発展している様な気がしているのも、独語そのものの影響が多分に含まれているかもしれない。
マルクスは史的唯物論なるものを唱えたが、よくよく中身を見ると心の動きにも重点をおいている。

日本人はmodifyが得意だ。
なぜだ?
それはかな文字と漢字を使うという、言語におけるhybridなアプローチから端を発している可能性は大いにあり得る。
かなを使うと、表現に強さの加減をまぶすことが出来る。より細かく物事を伝えることが出来る。
そこには漢字だけでなし得る必要最低限の伝達事項のみならず、複雑な情報が介在する。
それとmodifyにどの様な関係があるのか。

他者の作り上げたオリジナルに対して、かなという漢字の隙間に入り込む文字を得ることで、より複雑な基盤や回路を組み上げることが出来るのだ。
つまりかなを使うということは、その物事のわずかな隙間に巧妙に入り込むことが出来るのだ。
そのmodifyはオリジナルの隙間に入り込み、時に大幅な改良やカイゼンをもたらし、世界に衝撃を与えてしまうのだ。
それがウォークマンであったり、自動車であったり、時を更に遡れば数々の伝統工芸に垣間見ることが出来る。

言語は人を創る。日本語の対極に英語があるとするならば、それを活用して両端を自由に行き来できる様になろうじゃないか。