韓国、釜山の街並み

そのマッスルテストは正しかったか

セッションやペアを組んだ時、マッスルテストを行った時に時々感じることがあった。
それは「あの時行ったマッスルテストは正しかったのだろうか」と。
「あの時に出た反応、もしかしたらこっちじゃなかったのかな」「あれ、もしかして反応をみる時の確認方法を間違えてしまったんじゃないかな」
そんなことをよく考えていた。

そんなことを考えるのはやめた。
やり直すことはできないし、その時に戻ることはできないからだ。ではどうすればいいのだろう。
常に「その時」行ったマッスルテストがベストである様に取り組めばよい。
だが話はそんなに簡単なことではない。
一つ一つ進めばよい。その度無私になる。自身の思考を介すなどもってのほか。天に問うかの如く、反応を預かるのだ。
無私とは無欲であり、無心である。自身の頭脳で設計を試みるセッションなどたかが知れている。
型はあれど、常にその流れに身を委ねる。何も用意せず、その場に臨む。
出来ることは限られていて、そのマッスルテストを信じること。受け取ったことをそのまま相手に伝えるだけ。
閃きは考えて得るのではなく、降ってくるのを待つだけ。
解釈したくなったら、落ち着いて頭を空っぽにする。
完璧を求めたくなったら、今がベストだと受け止める。

これらを自然な流れであるかの如く行うために鍛練を積む。
そうしているうちに「そのマッスルテストが正しかったか」は「私の出した反応を信じる」に変わっていく。
正邪、善悪などと言っている間はまだ青いのかもしれない。二元論を超えた所に反応が存在する。
これが中庸なのかな、などと思うことがある。陰陽対極図にある白と黒の間。
潜在意識の深い所に暗く澱んだ錨が降ろされていようとも、真っ暗闇になることはなくそこに在る白色の丸い点は光をあらわす。ないと思えば見つからないが、あると思えば見つかるものだ。