所感

日々の所感をざっくばらんにお伝えします。徒然なるままに・・

グローバル化

キリン ハートランドの空き瓶

グローバル化という言葉を初めて聞いたのはおそらく中学生の頃の社会科の授業だった。その時は世界中で同じ製品や食べ物が手に入る様になったこと、といった具合の解説をしていたと思う。マクドナルドは世界中に店舗を構え、海外の大企業の製品はどこにいても手に入るし、インターネットから世界中の情報にアクセスできる。そんな感じで説明していたのだと思う。その後は下手くそなのに、大学3年まで野球のことを中心に考えて生活をしていた自分はグローバル化について考察することもなかった。なんとなくグローバル化の意味を分かり始めたのは20代半ばに差し掛かった頃だろうか。客船に勤務した経験が大きかったかもしれない。アテネにもマクドナルドがあって、Wi-Fi求めて観光客が群がっている。地下にあるトイレの鍵のパスワードは購入時のレシート下部に記載がある。人々は異国の地に踏み入れても見慣れたものがあるとホッとしたくなるのかもしれない。見知らぬものを体験しにきたことも忘れて。

グローバル化とはなんだろうか。そこは元々そこにあった何かを全て巨大な何かでとって代えてしまおうということではないか。商店街にあった美味しい中華料理屋さん。お店を切り盛りしていた老夫婦は後継ぎがおらず店を畳む。代わりに入ったのは王将だ。小さな頃から地元で育った子供達の心の味は老夫婦の作った餃子ではなく後者のそれ。彼らが大きくなって旅に出ると、旅先にも王将があることに気付く。ラッキー。彼らに子供が出来たら餃子は王将、寿司はスシロー。さあいくらでも食べなさい。この味は日本中どこでも楽しめる。なんて素晴らしい世の中なのだろう。これもグローバリズムなのか。

小さい頃、祖母が出前で取ってくれたかけそば。お店のおじさんがカブに乗ってやってくる。おかもちの板をスライドすると、器用に上部をラップと輪ゴムでふたをしたどんぶりがお目見えする。1,980円でーす。お釣りは20円ですね。いつもありがとうございまーす!祖母は時々冷蔵庫にあったオロナミンCをそのおじさんに差し出す。

20年後。

さあ今日は何を食べようかな。そうだ、最近出来たお店、デリバリーやってるって書いてあったな。。どれどれ、あ、バインミーが美味しそう。40分程度で配達ね。よし、決済はクレジットカードで、と・・。

30分後。

マスクをした控えめな若いお兄さんがやってきた。それの入ったビニール袋を手渡して、軽く会釈をするだけ。便利な世の中になったけれど、なんだか味気ないものだよね。これも多分グローバル化。
出前の文化は廃れたけれど、最近はニュータイプの出前が普及してきたらしい。海外のタクシー配車アプリの会社が始めたんだって。日本ではLINEの子会社がCMで浜ちゃんに歌を歌わせて対抗しているみたい。

昭和の社会にささやかな贅沢、ハレの日の消費に華を添えた百貨店。苦境は続き、日本橋と新宿に旗艦店を持つ両者は持ち株会社として合併した。鉄道とプロ野球団の存在が際立つあの百貨店はコンビニの傘下になっていた。それが最近、アメリカの投資会社に2,200億円で売り捌かれた。ワークマンの時価総額より安いじゃないか。
日用品を扱う会社に吸収されたと思えば、百貨店で売るものも恐るべき低価格化が進んでいる。
池袋にあるもう一つの鉄道系百貨店、気付けば2フロアがユニクロになっている。かと思えば横浜駅のビルの6階、有隣堂だったのにGUに取って代わられている・・。ジョイナス店より改札に近かったのに・・。
かと思えば近所の百貨店にはダイソーが顔を利かせている・・。
いつから日本はこんなに貧しくなったのか。
百貨店とイオンモールの違いってなんだっけ?

大企業の台頭が世の中をつまらなくしてしまったと責めるのは簡単だけれど、それらを買い支えているのは誰だろう?他でもない私達じゃないか。自分で自分の首を絞めているも同然だ。しかし消費者は予想以上にその仕組みに気付いていない。それは新聞やテレビ欄を見れば瞭然だ。資本主義が本当に悪いのか?いや、激安大盛り正義主義が広がり過ぎているからじゃない?良いものにそれ相応の対価を支払う文化はどこへ行ったのか。

人々は経済的に超合理的なものばかりを選び取る癖をつけてしまった。刷り込まれてしまった。いや、刷り込まれているあなた達が鈍い。でも痩せ我慢してルイ・ヴィトンのお財布は買っちゃうよ。中間層の価格帯製品が市場から姿を消している。これが二極化というのか。

皆賃金が上がらないと嘆く。賃金は企業の売上に左右されるものなのだから、私達が安いものばかりを購入してばかりいたら賃金など上がるはずもない。まずは近所のお店の店員さんのお小遣いをあげる努力をしてみたらどうだろうか。スーパーの一袋70円の激安小松菜ではなく、近所の八百屋さんのひとざる150円の小松菜を購入してみる。八百屋のおじさんのお小遣いがUPするかもしれない。
毎日使うご飯茶碗。ダイソーで買わないで数千円の手作り茶碗にしてみたらどうだろうか。地方の名もなき陶芸家のお小遣いが大幅にUPするかもしれない。
周り回って自社の上顧客が発注ロットを増やしてくれた。これで私のお小遣いもUPかな?

地に足ついた手の温もりを感じる製品。感性に訴えかけるあの品物。よく見渡してみると、かろうじて近くにも残っている。そうしたものを手に取ってみると、思わぬ胸の小躍りが待っているかもしれない。

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稽古

ジェイボードを練習する著者

今月、万年筆とこれはというノートを買ってからというもの、ブログの更新頻度が上がってきた。書きたくなるというのは不思議なもので2,000文字前後の文章でも「あれ、もうそんなに書いてたの」という具合に書いている。これらの文章はまずノートに通しで文章を書いていく。いわゆる下書きになる訳だが、その文章をキーボードで打ち込んでいく。ならば最初からキーボードで打ち込めば良いのではないか、という声も聞こえてきそうであるし、仰る通り二度手間である。しかし万年筆でノートに書き込むことが非常に心地良く、病みつきになる感覚を覚えてしまったのだ。気が付けば執筆にのめり込み、予想以上の時間が経過している。集中しているから、時間の長短が気にならない。効率を超越したからどうでもいい。もしキーボードで打つとなると、知らず知らずのうちに何かを検索したくなってしまい、気が散ってしまい、こちらも気が付けば違うことを検索していて予想以上の時間が経過していた・・。なんてこともある。この筆先がノートに吸いつく様な感覚がたまらないのだ。

ブログを書き始めたのは2017年のことで、blogger、note、そして現在の自作のウェブサイトとプラットフォームを乗り換えてきた。
当初はAdsenseの導入も検討したが、そもそも閲覧数が少ないし、収益も見込めない。また広告をつけることによって、文章そのものよりもより多くの人に読まれることに意識がいってしまいそうな気がしたので、やめた。
では何故ブログを書いているのか。正直文章を書くのが大好きかと言われたらそうでもない。生業にしようとも思ってもいないが、将来何か自身の著書を世に送り出したいという気持ちはある。その時の何かを書きたい気持ちに身を任せることで、未来に繋がる何かになりそうな予感はある。
最近読んでいる本の著者は、自身のウェブサイトで1,800以上もの書評を世に送り出してきた。氏は「ぼく自身の編集稽古だと言うのが一番当っている。」と述べていた。なるほど。私は書くブログというのが実は自身への稽古だったのではないかと合点した。
私がブログを書き始めたのはある人きっかけで、どちらかというと書きたいというより、一種の訓練、トレーニングになるから行うというイメージがあった。じじつ強迫観念で続けた時もあったし、ここ数年は途切れ途切れで書いていたのが実情だ。
しかし、稽古という言葉に置き換えてみたらどうだろう。妙に腑に落ちる感覚が芽生えた。

トレーニングと稽古、一見似た様な言葉だけど何が違うのだろう。トレーニングは「練習をすること。訓練、鍛錬」とある。稽古は芸術・武術・技術などを習うこと。また、練習。」、「芝居などで、本番前の練習。下けいこ。リハーサル。」、「昔の書を読んで物の道理や故実を学ぶこと。学問。」とある。ちなみに訓練は「あることを教え、継続的に練習させ、体得させること。」、「能力、技能を体得させるための組織的な教育活動のこと。」とのことだ。稽古という言葉には包容力がある様な気がする。そうか、私は今は見えない未来の本番に向けて、自分で自分に稽古をつけているのか。なんだか面白そうになってきた。

言葉というのは面白いもので、似た様な言葉同士でもイメージが全く異なってしまうものである。更に同じ単語でも使う場面やタイミングによってこれまた変容してしまう。言葉はそのもの単体だけではなく、言霊ともいうとおり言葉の主の感情をまとい、何か含みを持たせてやってくる。辞書での言葉の意味もさることながら、稽古という言葉には厳しさの中にもどこか温かみが内包されている印象を持つ。対してトレーニング、訓練には団体で行うこともあるけれど、どこか孤独で無機質な雰囲気をちらつかせている様な気がしなくもない。課す印象が強いのだ。英語にするとimposeがそれにあたるが、税金を課す、罰金を課すの他に義務を課すという意味でも使われる。受け身な印象だし、古臭い軍国主義的な匂いさえ漂ってくる。
いやいやちょっと待て。フィットネスクラブで行う様なベンチプレスやトレッドミルで走るのもトレーニングじゃないか。厳密にいうと少し異なる。あれは英語でいうとwork outになるのだ。つまり半分くらい和製英語。日本語でこれからトレーニングするんだ、はI’m going to work out.だ。だからこれからはブログを書くことを私に「課す」トレーニング・訓練ではなく、私が私につける稽古なのだ、と述べることにする。柔らかな表現の方がゆとりがあるし、実践で応用の効く間が生まれる。

「言葉遣いに気をつけなさい」。誰もが言われたことのある言葉だろう。敬語がうまく使えていない、目上の人なのに表現が緩い、子供の頃大人に対してタメ口で話してしまっていた。色々なシチュエーションがあるだろう。
これからは「言葉遣いを掘り起こそう」である。日本語というのは尊敬語・謙譲語・丁寧語などがあって使い分けがややこしい。たが一旦慣れてしまえば「とりあえず失礼のない様に丁寧にしておけばいいや」と言った具合に甘んじてしまう自分がどこかにいる。
今回の稽古という表現ではないけれど、今行っているそのこと、あのことに対してちょっと違う言い方を見つけてみるのはどうだろう。「ウィスキーを嗜む」にしてみる、生徒を指導するのではなく、「指南する」に変えてみるのも良いだろう。自身の仕事を「する」のではなく仕事に「相対する」と言い換えてみたらどうだろう。少し作業的なニュアンスがほぐれて、より主体的に取り組む感じが出てこないだろうか。

最近のメディアには新入りの「カタカナ語さん」の出入りが激しい。そこの役職をつけているおじさんはダイバーシティの英字綴りも分からないくせに会社の打ち合わせで多用しているじゃないか。そんなことばっかりやっているから多様性が失われているんだよ!と引っ叩いてやりたい気分だが、それが日本の現状である。そんな新入りさんばかり使っていないで、先人達が残してくれた味わい深い言葉を嗜もうじゃないか。せっかく日本人として生まれたのだから、どうでもいいくらいに微細で曖昧な違いを楽しもう。30年も失っちゃってきたわけなのだから。そんなハイブリットな提案ができたならば、本当の意味で独特な立ち位置を持つガラパゴスな国になれるかもしれない。英語さんには申し訳ないけれど、あなたがたには真似できない間を私達は持っている。

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Fountain Pen

ライフ製のノートとFiorentina社の万年筆。インクはHERBIN社製。

万年筆は語りかける。「そんなに速く書かなくても良いのじゃないの?」
万年筆を購入して4日が経った。水星逆行中にコミュニケーションツールを購入するのはどうかと思ったが、「コミュニケーションの見直し」と言う言葉が反応した。

万年筆を購入したのは初めてだ。早く書いてみたくてしょうがないので近くのカフェで開封の儀を執り行う。インクは交換の容易なカートリッジ式だ。早速ノートに書いてみると、ペン先が紙に喰らいつく感覚が気持ち良い。ボールペンとは異なる書き味に自分の好きな色を選べるインクのバリエーション。そして書いている時のワクワク感。万年筆はこんなに素晴らしいものなのか、文字を書きたくなるということはこういうことなのか、と実感した。
ちなみにインクはフランスのHERBIN(エルバン)社という会社のもので、創業は1670年とルイ14世在位時代から続く会社なのだそうだ。インクカートリッジの入った瓶は可愛らしい。

ちょうど使い続けていたノートも終わりを迎えた。文具屋さんへ行くと、良さげなノートを発見。紙の色は薄がかったクリーム色で、A5サイズ100綴りが1,100円。ちょっと高いけれどピンときてしまった。自宅に戻って書いてみると、期待した通りの書き心地だ。インクの何ともいえぬ藍色がそのクリーム色の下地によく映える。そのコンビネーションには色気さえも感じてしまう。隙あらばノートを開きたくなってしまうくらい心地良い。少し前まではずっとCAMPUSを使い続けていたが、ふと気になったツバメを購入。これは素晴らしいと思っていたが今回のLIFE製は更に素晴らしく感じた。もうこれではCAMPUSに戻れない。昔はノートなど何でも良いと思っていたのに。

良いものというのは確実に何かを訴えてくる魅力がある。せっかくならば、私はそれらを通じて得られる心地良さを追ってみたい。
ノートに何かを書くだけでこんなに楽しいなんて。
日々の楽しみは足下に転がっている。
その思いは日々強まる。

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避けるか、いただくか

宴会中に食べたローストビーフサラダ

最近私が気付いたこと。
それは食事というのはエネルギー源を補給しているということだ。
何を今更。そんなこと当たり前だろう。
そんな声が聞こえてくる。
私は2019年のある時を境に、2年半もの間グルテンフリー食を続けた。結果、それが直接的原因かは分からないが、調子を崩した。そして痩せた。気力が落ちた。
小麦を摂らなくなったせいではない。我慢をして我慢の反動が別のところに影響を及ぼして、全体の何かを狂わせてしまったからだ。

小麦の摂らなくなるということは、その分他の食物の摂取の割合が増えることになる。空いた穴は何かで埋め合わせをされる。仮に小麦の摂取自体がその人の食物摂取におけるバランスの一部を形成しているとしたら、その人の栄養バランスを崩していることにならないだろうか。
上記の仮説が成り立つのであれば、小麦が多少悪さをしていようとも、小麦を今まで通りの割合で摂取していた方がいいということになる。

私は小麦をやめると決めてからは、その食物を”避ける”ということになる。今まで”頂いて”いたものを”避ける”様になったのだ。
足し算、引き算でいうならば、頂くことは足し算、避けることは引き算だ。単なる言葉遊びかもしれないが、実際に私の体重は減少した。これを二年半、約900日程度続けるとどうだろうか。私の体重は9kg減った。平均すると100日あたりで1kg減った計算になる。

食事や食材に対する考え方は、実際に摂取する栄養素よりも大きな影響を及ぼすのかもしれない。栄養士が作り上げた栄養バランスに則した食事を例に挙げてみよう。
その同じ食事内容をAさんとBさんが毎日食したとしよう。Aさんはその食事を毎日楽しんで食べ続けることが出来た。Bさんは健康の為と思いつつもあまり楽しく食事をすることはなかったとすれば、同じ食事の内容でも精神面での影響が入ってくることだろう。

よく健康に関する書籍や医師が書いた書籍では「ヴィーガンの人はガンになりやすかったり、顔色が悪かったり、肌ツヤの悪い人が多い」という記述を散見する。
小麦と動物性食品は違えど、ウィーガンもグルテンフリーダイエットと同様、特定の食品を”避ける”という観点から見れば同様だ。

それらを行う動機は様々だろう。「肉は体に悪い」かもしれないし、「肉食をやめればCO2削減に貢献することが出来る」という配慮からかもしれない。
どちらにしろ、”引いて”いるという事実は残る。
もしその人が健康面において問題を感じていなかった場合、元々自信が持ち合わせていた食生活における肉という選択肢を引いていくことになる。良くも悪くも自身の栄養摂取バランスは変化する。

逆の考え方をしてみよう。
体に不調を抱える人がグルテンフリー食やヴィーガン食を実践し、体調が改善したとしたらどうだろう。一概には言えないが、小麦や動物性食品が悪影響を及ぼしていた、もしくは過剰摂取によって影響を及ぼしていたといった量的問題かもしれないし、それらのアプローチが心理的に変化を及ぼしたのかもしれない。
つまり身体の栄養バランスも大切であるし、自身のの心の持ち様も関連する可能性がある。
心身一如とはよくいったものだが、どちらが欠けたり過剰であってもいけない訳で、よく当てはまる。

ここまでは引くことのリスクを述べてきたが、もちろんグルテンフリー食やヴィーガン食で健康体を保つ人も数多くいるだろう。
その人達が体調を保つ理由としてはそもそも小麦がその人自身に合っていない、動物性食品を摂取せずとも問題がないという各人の体質的問題に起因するかもしれないし、何か自身の精神面からやってくる確固たる信念に起因しているかもしれない。
もし後者であるのならば、栄養面という物質的観点を超えて精神面がよりバランスの均衡に寄与していることも考えられる。

私は二年半に渡るグルテンフリー食生活をやめた後も思う様に体重が増えずにいて困っていた。食べる量自体は増えているのに。元々人より量は食べるし、食べても食べても体重が増えにくい体ではあった。
しかし最近気付いたことがある。
それは食事中に自身にとっては悪いものを避けようというグルテンフリー食実践期間中に常に意識をしていた”引き算グセ”の思考が残ってしまっていたことだ。
何かを食べながら「これはこういうところが悪いのではないか」「ではこちらの方が無難そうだからこちらにしよう」という感じで食品に対して減点制度を敷いてしまっていたのだ。
いくら食事の量を増やしても、常に「悪いものを避けよう」などと意識が引き算に向いていたら身体も引き算に向かってしまってしまう。

そこで私は食事を”足し算”でいただく意識へと変えることにした。
具体的には、食事を”エネルギーを得る為の行為”という意識に変える様にした。もうその食品に対するリスクの粗探しをやめて、栄養素だけではない見えない”エネルギー”をいただくものだと意識を変えた。実践を始めてから1週間程であるが、毎食自体がいい意味でよりリラックスして過ごせる様になった。
当たり前であるが、常に心配を抱えながら行う食事は心身ともに決して心地良いものではないだろう。

私がグルテンフリー生活から様々なことを学んだ。元々自身の持つバランスをむやみに崩してはならないこと、一人一人の身体には食材の相性があること、食品からの栄養摂取以上に食事に対する心の持ち様が及ぼす影響が大きいということを学んだ。

二年半にわたる引き算によって起こしてしまったことの代償は思いの外大きなものとなってしまったが、同時に重要な気付きをもたらしてくれた。バランスを戻すのは大変だが、一歩一歩着実に取り組んでいこうと思う。

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一次情報と二次情報

民藝展の民藝品を用いたショールーム

1つのニュースがある。
それを今、webブラウザで見ようとすると、同じ内容で複数のニュースサイトから見ることが出来る。大抵検索結果の上位に表示されるサイトは二次情報であることが多い。それは情報源が別にあって、そこから引用をして記事をまとめたものである。つまり、情報源さえあれば、誰でもそのソースに即した文章を作ることができる。

また、三次情報として作り上げられたものが検索の上位に上がってくるものも多い。三次情報という言葉は辞書には載っておらず、基本的には情報源が定かではない情報を指すことが多い。芸能人に関する根も葉もない噂をまとめているウェブサイトは三次情報にあたる。

一次情報という言葉を広辞苑で調べてみると、「実態調査・アンケート調査・実験などにより直接集めた情報。図書情報では、論文や資料集など研究活動から生み出されたそのままの情報。」とある。
二次情報という言葉を調べてみると、「一次情報を検索や流通に便利なように要約・整理・加工・再編成した情報。」とある。

もし一つのニュースを読むとして、より正確な内容の記事を読みたいのなら何が良いのだろう。それはそのニュースを実際に見た人が言及したことを見たり聞いたりすることだろう。そうした直接観察した結果や生の声など、加工されていない情報も一次情報に分類される。つまり何かの出来事の当事者となれば一次情報を得たことになる。「ラーメンを食べて美味しかった」「事故が起きる瞬間を見た」「岸田総理大臣の発言をその場で聞いた」のであれば、それは一次情報である。

「あそこのラーメンは美味しかったと友達が言っていた」のを聞いた、もしくは記者が実際に見聞きした情報をまとめてそれをニュースサイトで閲覧としたしたらそれは二次情報であり、「あのお店のラーメンは美味しいらしいよ(情報源不明)」は三次情報である。

より活きた情報を得るならば、一次情報を得ると良い。一次情報のその瞬間は写真か何かで切り取ることが出来ても、その場の空気感や雰囲気は当事者にしか感じることが出来ない。そこには、言葉だけでは伝えきれない情報、非言語の情報も多分に含まれる。

小難しく書かなくとも、私達は常に一次情報に触れている。立ち寄ったカフェのコーヒーが美味しかったのであればそれは立派な一次情報であるし、文章を書いている最中、握っているペンの感触も一次情報、鳥のさえずりを聞けばそれは音声の一次情報だ。

それでは何故、人は二次情報に触れているのだろうか。それは自身が直接見聞きしたもの以外にもっと知りたいことがあるのかもしれないし、生活する為に必要だからかもしれない。

新しい一次情報を得られる行為に、旅行がある。普段の生活とは異なる新たな一次情報を得ることができるだろう。

二次情報には質が存在する。一概に善し悪しを決めることは非常に難しいが、インターネットの普及によって爆発的に情報量が増えた。コンピューターが普及していない時代では海外の文献を手に入れるだけでも一苦労であっただろうし、海外で起きたことをニュース記事でしかも英語でとなると海外紙を購読しなければフレッシュなニュースを得られなかったはずだ。

インターネットの普及によって一般の人々も情報を発信することが容易になった。今までは限られた人々しかマスへ発信することができなかった。少なくとも、そういった文章は推敲され、第三者のチェックをが入るというプロセスがあった。だが今は他者の確認を経ずとも情報の発信をすることがより容易となった。その場の感情に身を任せて書き連ねたものも、個人情報を曝露してしまった文も人の目に触れさせることができる様になった。

一次情報は生の情報、つまり体感に直結することが多いのでより確かで豊かな情報を得たいのであれば現場で感じることが何よりだ。
問題は二次情報だ。広辞苑にある様に「一次情報を検索や流通に便利なように要約・整理・加工・再編成した情報」の摂取は手触りのないものが増えてきた。以前は書籍や紙の媒体そしてテレビやラジオといったメディアが主であったがインターネットの普及によって濃度の非常に薄い媒体が更に増えた。
いや、元々非常に薄い媒体は多かったのであるが記者や作家といった専門職だけではなく一般人が同じ土俵に立てる様になったが故である。
もちろん一般の方にチャンスが広がったと言えるし、一般の方のプロへの道を多いに広げるものになるかもしれないが、残念ながら現在は濃度を薄めてしまっている方に寄与してしまっているのが現状だ。

私は二次情報の底上げこそが現在抱える課題の打破に繋がるのではないかと考える。

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既に”ある”と考える

藤沢駅から見た景色

今までの自身のアプローチは、私にはないと考えて、とにかくないものねだりをして見たことのないものや自身に不足しているものを得ようとしていた。

「小さい頃、自分の部屋がなかった」「野球を始めるのが遅かった」「ゴミ屋敷に住んでいた(少し盛った)」などとなかったものをコンプレックスや劣等感にすり替えて過ごしていた。
「だからオレは恵まれていなかった」などと考えていた。

しかし、この「ないない」ループを追い求めた結果、何も残らない可能性が増えることに気が付いた。
「このまま新卒の会社にいたら、ずっと英語を習得する機会がないのではないか」
「このままこの会社にいたら、海外で働くことはないのではないか」
「私にはその知識はない
勢いでその環境から飛び出していた。
この決断によって、良かったこともあるが、結果として非常に不安定な20代を過ごすことになる。

「このままでいいだろうか」は良く言えば向上心を連想させる。悪く言えば「逃げ」を連想させる。
ないものねだりを続けたら、一生ないものを渇望し続けることになる。

そこで最近、ふと気が付いた。

実は既に「ある」ではないかと。

「ある」ものを探してみよう。
五体満足、様々なスキル、食糧、家族、インフラ、大切な友人、大卒という”学歴”・・。
その程度に差はあれど、比較しなければ何かしらはあるということに気が付いた。

ないものばかり探していると、自己不信に陥るし、劣等感に苛まれる。自身が嫌になる。
多少ならいいが、毎日自分にないものへの見付け方が極端になると、それは心身のバランスを崩すことになるのではないか。
自分にはないと思ってスタートを切ろうとすると、あると思っている時よりも腰が重いし、フットワークが重くなる。

しかし、「私には既にあるじゃないか」と考えると、気分が少し軽くなる。

仕事で「私にはない」ループに陥ると、ゼロからのスタートだらけに感じてしまう。
しかし「私にはある」ループにすれば、イチ以上からののスタートになって腰を上げることが出来る。

だからといって、自分を甘やかしなさいといっている訳ではない。

既にあるものを使って、それを組み合わせて何かを生み出せば良いのではないかということだ。

「知識がない」のではない。その知識が不足しているだけだ。その知識は少しだけ持ち合わせているはずだし、不足しているならばその段階から積み重ねていけば良い。

ないと捉えることは、極度な完璧主義を生み出すかもしれない。

何も一発大当たりを狙うことはない。今あるものを組み合わせて、チャレンジして、試行錯誤して、作り上げれば良い。ありきたりの表現を用いるならば、「塵も積もれば山となる」だ。

ローマは一日にしてならない。ないものをあるにして、ないを減らした結果、ローマになったのではないか。

現代について言及すると、人を「ないない」ループに陥れる仕組みが見事なまでに出来上がっている。
SNSで他者の自慢投稿を見て、「ああ、私にはこれはないな・・」。TVCMもうるさいくらいに「あなたにはこれがないから、これを買いなさい!」と迫ってくる。ファッション雑誌は「今年の流行りはこれなのに、あなたまだ持ってないでしょ?」と囁きかけてくる。

言い換えるならば、他者との比較ループだ。

違う、今あるものに目を向ければ良いのだ。

「今の私には何がある?」「得意技は?」とりあえず頭の中で挙げてみる。
挙げてみても、「ああ、私にはこれしかないのか・・」と消沈するかもしれない。
ではどうすれば良いのか。ないを減らして、あるを増やせば良いのだ。

2011年11月25日、パタゴニア社はニューヨークタイムズ紙に”DON’T BUY THIS JACKET”と書かれた広告を出した。それもブラックフライデー当日に。
広告とは基本的に自社の商品の販売を促進する為に掲載するものである。

しかしパタゴニアは、過剰な消費による地球へのダメージを危惧し、消費者へ自身の購買行動に対する再考を迫った。

この広告を消費行動ではなく、自分自身そのものに置き換えてみたらどうだろう?

「既に自分が持っているもの、あるでしょ? ないものねだりすることないんじゃない?」

「今持ち合わせているものでやりくりしたらどう?」

「さあ、工夫してやってみよう!」

引用:patagonia 「Don’t Buy This Jacket(このジャケットを買わないで)」:ブラックフライデーとニューヨーク・タイムス紙

これを「Don’t Buy This Jacket 精神」と名付けることとする。

まずは身の回りに「ある」もの、自身に「ある」ものから取り組んで、「ない」「足らない」と感じたら目標を持って「ない」を「ある」に変えていく。

人生はこのサイクルが永遠に続く。

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不便と不便の”幅”

アルコールストーブとsolo stove

一昨日は日中でも氷点下近い冷え込みであった。
その影響か、今朝はお湯が出ないという事態に遭遇した。記憶にない為、もしかしたら初めてかもしれない。

自宅の給湯器は北側を向いて設置されている。つまり、東西南北の中で、同じ気温でも日光が当たらず、一番寒い場所に位置する。対策として、お湯のタオルを給湯器に繋がる水道管に当てるという処置をしたが、中々うまくいかない。結果的に蛇口をお湯側にしてチョボチョボとお湯を出すことで事態は解決した。

昨日は朝9時過ぎまでお湯が出ない経験をした。
その後、食器を洗う為に出したお湯の温かさにはありがたみを感じた。そこでふと思う。人は不便を経験しないと、日常の当たり前のありがたみを忘れてしまうものであると。

2020年の年末に行った唯一の忘年会は、雲取山中腹にあるテント場での宴であった。外気温は-5℃の中、男4人はそれぞれのテントを張り、寝支度を整えたら1か所に集い晩餐の準備が始まる。火元はガスバーナー、アルコールストーブ、枝を燃して火を起こすことが出来るネイチャーストーブだ。それぞれクッカーを持ち寄り、スーパーで買った食材を協力しながら捌いていく。周囲は真っ暗な為、おでこには各自がヘッドライトで手元を照らす。

不便極まりない状況であるが、本当に楽しい。料理の美味しさもひとしおだ。その手間が美味しくさせているのか、5時間程の山行がそうさせているのか、標高の高さがそうさせているのかは分からない。そんなことはどうでも良い。

不便は時として大きな喜びを誘発する。蛇口からお湯が出ない、電気が使えない、屋外で寝なければならない。けれどもその逆境やその行動を成し遂げた時、大きな安堵を得ることもある。何故不便な状況に自身を追いやられた時、どこか喜びを感じるのか。それは人間の本能なのかもしれないし、通常とは違う状況に置かれたことによる何かなのかもしれない。

一つ言えるのは、そもそも人類の誕生時には上記の様な生活インフラの整った住居はなかったということだ。現代でいう、前述した様な”不便”は言い換えるならば人類誕生時により近い状況であるといえる。もしかしたら祖先が当たり前の様に過ごしてきた不便さを体感することは私達の奥底にある本能的な何かの部分と共鳴して、オリジナルに”少しだけ”近い状況へと立ち返ることが出来たことにホッとしているのかもしれない。これは厳しい寒さの中、自宅の空調で部屋を暖めてくつろぐ”ホッ”とするとは本質的に異なると言える。

また、前者の”ホッ”とから離れ、後者の”ホッ”とばかりに身を委ねていると本来人間が兼ね備えていたであろう野生的な勘が衰えることは想像の範囲内だ。もし、建築業者が野生的な勘を鈍らせていたらどうだろうか。もしかしたら、給湯器を陽の当たらない、一番寒い方角である北側ではなく、柔らかな陽射しの当たる東側であったら凍結しなかったのではないか。ふとそんなことが頭によぎった。

私達の遠い祖先から言わせてみれば、現代私達が感じる”不便”は決して”不便”ではなかったはずだ。何故なら移動する際に自動車を使うことは出来ないし、蛇口を捻ってお湯が出るはずもない。移動は自身の足、お湯を使うならば水を汲み、火おこしから始める必要がある。そう考えると、文明化が進めば進む程、人々の生活における”不便”の幅を広げていることになる。

ここで”不便の幅”という尺度を出してみよう。自宅から1km離れたスーパーへ買い物へ行くとする。交通手段は自動車、原付、自転車、徒歩の4種類あると仮定する。
自動車と原付を常用する人にとって、自転車と徒歩は”不便”にあたる。
逆に、常日頃から自転車と徒歩でスーパーへ行く人が自動車と原付を用いれば、それは”便利”に反転する。
更に、徒歩でスーパーへ行く人からすれば、自転車も原付も自動車も全て”便利”だ。
更に気象条件によってその”幅”はリキッドに変化する。冬であれば原付は動く”椅子”と化し、寒さに耐えなければならない”不便”となる。

もし、声だけで室内の電球が消せる時代ならば、電球を消す為にスイッチを押しに行く移動でさえも”不便”の範疇におさまる。タクシーに慣れてしまえば、バスは”不便”である。

生活の全てを便利という言葉に委ねてしまったら、退化のペースに拍車がかかる。

もし、生への充実を求めるのならば、時代を遡った生活様式の一時的体験は一つのヒントとなる。携帯電話の繋がらない様な”圏外”に滞在する、テントを張って屋外で寝る。もっと身近な所で言えば、自動車を我慢して徒歩で移動するなど工夫次第でいくらでもある。

上記にて定めた尺度を基準とするならば、現代において”便利”の幅は拡がり続け、”不便”の幅は日に日に狭まっている。”不便”は悪いことではない。むしろ不足しているくらいではないだろうか。無い物ねだりとは言い得て妙である。ならば無いに越したことは無いのだろうか。
今出来ることは、”便利”の幅を自身の手で拡げること。
私は現代的”便利”と原始的な生活の間に、解のない答えがある気がしてならない。

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2022年強迫観念の旅2

宇宙にある人工衛星

まだまだ尽きない強迫観念のケーススタディ。
それは読書にも及ぶ。

私はKindleの白黒版(Paperwhite)を愛用している。
これはいわゆる紙の本と異なり、例えば寝る前や起床後にスマホ感覚で片手で内蔵された書籍を読むことが出来るので、非常に重宝する。

私の場合、寝っ転がりながら両手を使って本を読む気を起こすのは難しい。この寒い時期なら尚更だ。寒気が羽毛布団と身体の隙間から入ってきて寒い。その点Kindleは布団に潜りながら読めるし、暗くてもバックライトがついているので安心だ。

デジタル・ミニマリストを読んで以来、極力布団でスマホをいじるのは避けている。更に言うならば、寝る時にスマホは寝室のは置かずにリビングに置いておいて、手の届かない様にしている。目覚めてもスマホが手に届く場所がない!!時には時間泥棒と化す彼(彼女?)と物理的距離を保つ恩恵は大きい。

その点Kindleであれば寝る前や起床後にスマホをいじる様な罪悪感を感じることがない。何故なら私は読書をしているのだから。そのまま勢いでネットサーフィンをして20分経ってしまった・・。なんてこともない。動きがやや鈍いのが玉に瑕だが、少しアナログ感のある所に愛嬌を感じる。

といった具合にKindleのメリットを書き綴ってきたが、実は強迫観念の観点からだと一つ大きな問題がある。それは、”その知らない単語調べなきゃいけない”問題だ。これはKindleにおける非常に大きなメリットであるのだが、分からない単語に出くわす度、”この単語を調べなきゃ次に進んではいけないのではないか”という強迫観念がやってくるのだ。馬鹿みたいと思う方もいらっしゃるだろう。しかし、強迫観念という言葉を調べると、「馬鹿げているとわかっており、考えまいと思っても頭から払いのけることができない考え。(引用:広辞苑無料検索 大辞林 きょうはく-かんねん【強迫観念】 より)」とあり、確かに馬鹿げているのだ。これは読んでいる時の気分によってムラがあり、”今回は調べなくて良いや”という時もあるし、”いや、今日はきっちり調べて覚えなければ”と思う時もある。

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坐禅へ伺ってから、日本仏教の宗派の歴史を学ぶ筆者
私の地元は禅寺界の重鎮だらけじゃないか!・・と今更気付く

当たり前であるが、紙の本で分からない単語を長押ししても急に意味が出てくることはない。例えば”エジソン”という言葉の部分を見て、Kindleを読んでいる最中ならば”彼の生年を調べなければならない”といった余計な声なき声が出てくる所であるが、紙の本で”まあいいか”と思える可能性の方が高いという点で助かっている。強迫観念の出現率という観念から見ると、紙の本の方が優秀(?)である。ただ、読書中近くにスマホがあると”調べなきゃ君”が出てくる可能性が高い。この時もスマホとPCを遠ざけておくと良い。

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”エジソン”を長押ししても意味が出てこない

これも小さな頃から続く習慣である。小学校の頃、コロコロコミックを毎月読んでいた。漫画を読んでいる最中、”もう一回戻って読まなければいけないのではないか”、”ここのセリフをもう一回読み返さなきゃ”などと訳の分からない観念が飛び出してきて、私を苦しめる。

新聞もそうだ。小学校の頃はスポーツ欄を好んで読んでいた。プロ野球のページには結果だけでなく、その試合の選手の個人成績や打率や防御率の個人ランキングなども載っている。こちらも同様、”この選手の現時点の打率を覚えなきゃいけない”、”何打数何安打で打率何割なんだ”といった具合に”読まなきゃ君”がどこからともなくやってくる。

本当に馬鹿げている。リラックスさせてくれよ。当時の私はそう思っていたに違いない。

何故この様なことが発生してしまうのか。それはどうやら”自分が苦しまなきゃ”いけないと潜在意識に刷り込まれてしまったことに一つの原因がある様だ。これは生まれてから幼少期に刷り込まれた後天的要素。しかし、”私は自分が苦しまなければいけない”という道を選択したという、先天的要素がある可能性もあるのだ。

言っている意味が分からないだろう。私も分からない。その先天的要素とは何か。それは”神との契約”である。ああ、筆者はつまり強迫観念をスピリチュアル要素のせいにしたのだな、なんて声も聞こえてきそうだ。そうなのだ。

”神との契約”とは、何なのだろうか。平たく言うならば、”生まれてくる前、自身はその親、その場、その境遇”を選択してきたということである。この”神との契約”に沿って述べるならば、”強迫観念のある自分を選んで生まれてきた”ということになる。当然ながらそんなことを知る由はない。しかし私はこの言葉を今は信じたいと感じている。では何故、私は強迫観念のある自分を選んできたのだろうか。それは、乗り越える為の試練であるからだ。つまり強迫観念は何かのトレーニングなのだ。”何かをしなければならない”のだから、その”何か”を達成した時、私は少しその”何か”に置いて成長しているのかもしれない。

事実、強迫観念なのかは分からないが、私は昨年、”TOEICで一定の点数を取らなければならない”という観念に対し、1ヶ月半の徹底した勉強によって、上位約3.5%の得点にまで達した。”得点”という観点からすれば私は成長したことになる。見えない誰か(自分?)に”無理強い(強迫)”されることによって、それは訓練、トレーニングとなり、成長に繋がった。人それぞれに成長パターンはあると思う。”楽しい!”と感じることをそのまま続けて成長する人もいれば、自身で”これは達成したい”と心から思うことを目標に据え、そのプロセスで成長する人もいる。また、厳しい掟の下、外的な”強迫”によって鍛え上げられ(例えばとても練習が厳しい全国大会常連校の部活)て成長する人もいるだろう。たまたま私は、生まれてくる前の”神との契約”で、その訓練を授けてくるヤツが自分の内側にある”強迫観念”であり、その契約書にサインしただけの話だ。それで良いじゃないか。

一つ”神との契約”という概念を使ってはいけない時、タブーがある。それは、自身が親になった時だ。生まれてきた子供に対して、”お前がオレ達、私達を選んで生まれてきたんからな!”と考えることだ。

これでは元も子もない。

この夏、私は”神との契約”と言う概念を久米島滞在中に知った。更に嬉しいことに、私は今、頭に浮かんだことが強迫観念なのかを判別する技能を手に入れた。しかもそれは、上達すればする程、その強迫観念を生じさせてしまった根本の原因までをも、潜在意識を介して探ることが出来るのだ。私はまだまだ、その技能を鍛えている途中だ。
その名を”キネシオロジー”と呼ぶのだが、それは頭に”琉球”を付ける必要があるのだ。どうだ、ますます訳が分からないだろ?

齢三十にして、私は大きな武器を使わせていただく機会を得た。

この武器を手に、強迫観念の旅は続く。

画像出典:PaopanoによるAdobe Stockからの画像

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2022年強迫観念の旅

宇宙にある人工衛星

私の強迫観念との付き合いは5歳の頃にまで遡る。親の話によると、当時住んでいたアパートの階段で登る足を決めて、その足で登れなかったらもう一度登り直さなければいけないということを既に行なっていたらしい。

私の顕在意識に残っているもので一番古いのは、小学生の頃。近所の道には、100m弱に渡ってマンホールの様なものが一定間隔で置かれていた。当時の私はそれを決められた足で渡ることが出来ないと、”これでいいのだろうか”と真剣に考えて不安な気持ちになっていた。時には周囲に怪しまれない様に決めた足で渡り直していた様な気がする。また、これは自転車で通る時も同様で、”マンホールの右半分のここらへんを通る”と自転車の前輪がその決められた場所に通らなければいけないということを行なっていた。こちらも同様、決められた場所をうまく通ることが出来ないと、謎の不安感が襲ってきて、場合によっては再度やり直す。当時の私は、”何故こんなことをしなければならないのだろう”と苦しみつつも、理由が分からずに続けた。

また、これは現在も気付かぬうちに行なってしまうことがあることがある。私は飛蚊症であり(皆持っている?)、それ自体は大したことではないのだが、その飛蚊症の”蚊”で目線を動かしながら”く”の字を作っている。私はこれが出来ないと再度”く”の字を上手く描ける様に目線を動かし、”理想的”な”く”の字に苦心する。

ギリシャに数ヶ月クルーズ船で勤務をした時は、”毎日ブログを更新しなければならない”と自身を強迫し、非常に苦しんだ。せっかく皆が憧れるサントリーニ島で日中丸々休憩時間が与えられても、”休憩時間中ブログを書かなければ更新することが出来ない”となり、貴重な時間をあまり楽しめないということを経験した。

その他にも、どうでもいいことなのに勝手に内面で作られたルーティンを守れないことで発生する”これで良いのだろうか”という不安感は数多くある。本当にこれらから逃れたいと思っている。そしてこれらは減りつつある。

思えば、グルテンフリーもその一種であった。私は2019年5月から2021年12月まで”ほぼ”グルテンフリーの食生活を実践していた。許容範囲としたのは味噌や醤油に含まれる小麦や、揚げ物の衣等だ。グルテンフリーという言葉を初めて認識したのは、恐らく2016年頃に読んだテニスプレイヤーであるノヴァク・ジョコビッチ選手の著書が初めだと思う。グルテンフリーを開始する数ヶ月前、私は前職を肉体的・精神的疲労を理由に退職しており、気力に乏しく踏ん張りが効かない状態が続いていた。そこで私は何を思ったか、”グルテンフリーを実践すればコンディションが上向くのではないか”と考えた。実際に実践してみると、まあ悪くはないのだろうが、如何せん制約が多過ぎる。小麦製品がダメとなると、外食が非常に厳しくなる。もうイタリアンは無理。ラーメンもだめ。ちゃんぽんもだめ、餃子もである。人付き合いも悪くなる。

今思うと、”グルテンフリーをしていても、私は今調子が思わしくないんです”という根拠がある様でない予防線を貼っていた様である。制限のある食事法は続けられずに辞めてしまう人も多いそうだが、私の場合は”強迫観念”という武器を所有している為、ある程度続けてしまうと辞めるタイミングの方が難しくなってしまう。1年も経てば、”ここで辞めてしまったら、更に体調を崩してしまうのではないか”という不安が勝り、”だったら、続けなければならない”という強迫が勝るのだ。

結果的に2021年12月まで続ける訳だが、止められるタイミングがあって本当に良かったと感じる。世の中にはタバコや薬物中毒を止められずに苦しむ人がいる。私は先に挙げた食事制限や、”白砂糖は体に悪い”などと理由を付けて、何かを摂取することを制限してそれを続けてしまうことが多かった。言い換えるならば、引き算的アプローチの継続である。しかし、世の中の人は甘いものや極端に辛いものの食べ過ぎなど、何かを過剰な摂取を続けることを止められない、”足し算的”アプローチの継続をする人も数多くいる。

一見すると、”足し算”と”引き算”は対照的なアプローチであるが、両者とも”依存”という共通項が垣間見える。

依存とはなんであるかを辞書から参照したいと思う。

い‐そん【依存】
(イゾンとも)他のものをたよりとして存在すること。「親に―した暮し」

引用:広辞苑無料検索い‐そん【依存】

つまり、”足し算”であれば、”摂り過ぎ”をたよりとして存在し、”引き算”であれば、”何かを制限すること”をたよりとして存在しているということになる。

私の場合に置き換えると、タバコを吸ったことはなく(大学の頃、吸おうとしたらむせてしまって断念したことはあった)、嗜好品に溺れることは少なく、どちらかというと常に”引き算的アプローチ”に偏りやすい傾向があった。この根源では先に述べた通り、思い当たるのは強迫観念由来のものである。食事関連であれば”これを摂取することを止めなければ、何かが良くならないのではないか”、行動であれば、”この階段は右足から登らないと、何か良からぬことが起きるのではないか”といったものである。

ここで強迫観念が先か、依存が先かなどと考えてみたが、埒が明かない。当たり前だ。何故なら強迫観念にしろ、依存にしろ、それが発生する原因があるからだ。原因の捜索が先だ。

私の場合、原因を捜索する為に非常に役に立った書籍がある。それは、内海聡医師の著作、「心の絶対法則」という本である。詳しい内容は本書に譲るが、私の場合、行き着いたのは同書にあった、”我々の精神パターンのほぼすべては0〜5歳程度の年までに形成されている(内海聡.”第7章「全人類アダルトチルドレンの絶対法則」”.心の絶対法則 なぜ「思考」が病気をつくり出すのか?.2020, p.104”)という記載である。本書の述べる精神パターン、つまり私でいう”強迫観念”は0〜5歳程度の年までに形成されている可能性があるという点だ。私は結果的に、本書をきっかけとして内海聡医師の診療を受けることを決意し、結果的にこの診療がグルテンフリーを辞めるきっかけとなり、強迫観念形成のヒントを掴み、軽減することが出来た。

ただ、現在も自身では不要と感じている強迫観念に迫られることは多々ある。そしてそれは0歳〜5歳の間に形成された精神パターンだけではない可能性があることを知ってしまう。平たくいうならば、スピリチュアル領域からの原因である。そのきっかけを与えてくださった方こそ、慶太さんこと齋藤慶太氏であり、氏のキネシオロジーであった。

2022年強迫観念の旅は続く。

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ルッコラをかじる 食材の力強さの正体

しめじ、壬生菜、ねぎ、白菜の入った鍋

先日、知り合いの方の畑へ行った。会うのは4ヶ月ぶり。農薬は使わず、いわゆる化学肥料も用いない。そこでは野菜を購入する際は自分で必要な分を収穫する。購入する前提であれば、”味見”も可能だ。ここでいう”味見”とは、育っている野菜をそのまま食することを意味する。私はそのままルッコラをいただいた。うまい。以前もこちらで色々な野菜を”試食”させていただいたが、感じ方が違う。

突然、”こんな野菜を食べていれば、食べ過ぎなんてことにはならないのに”なんてことが浮かんでくる。現代の食生活は、言い換えるなら”そのものの味が弱い”食材に対して、必要以上にドレッシングや化学調味料、時には甘味料などを用いて味を濃くして食べている。味を濃くしないと美味しく感じないのだ。更にたちの悪いことに、TVを中心としたマスメディアは太っていたり、カラフルで派手な芸能人達に”味付けの濃いもの”をたくさん食わせて、視聴者に対して”もっと食え”と言わんばかりに消費を促す。それは広告主というスポンサーへの忖度も理由に含まれる。その結果、”人が食べている所を観ながら食べる”という二重の謎の現象が発生している有様で、どこまでも食欲を刺激する。私が畑で食べたルッコラはそのままで美味しいと感じた。食卓では、オリーブオイルを絡めただけのルッコラサラダは濃い味と力強さを感じた。スーパーに流通する大量生産されたと思しきルッコラのそれとは何が違うのか。農家さんが生計を立てる為に、より多くを出荷する為に、より多くの作物を栽培する必要があるからだろう。畑で野菜を育てると分かるが、狭い面積でも面倒を見るのは大変だ。雑草を抜き、生育具合によっては間引きをするなどの仕事は想像以上に大変だ。スーパーに流通する様な野菜はこの何百倍の手間が掛かるのだろうかと考えると気が遠くなる。そこでやっと、その手間を減らす為に雑草や虫を駆除する農薬やより早い生育を促す肥料(窒素や鉱物をより多く含む)を使用する必要があると理解する。いわゆる化学肥料を用いると、生育は早く野菜自体は大きくなるがその分中身の伴わない味の薄い野菜になりやすいという。どうやら、私の”味見”したルッコラとスーパーに並ぶルッコラの違いはそこらしい。その素材自体が力強ければ、そのまんま、もしくは最低限の調味料で美味しく味わえる。”素材の味を活かす”という表現があるが、それは素材自体に力強さがあることが前提になる。

ここで私は、力強さだけでなく、食べ物そのもののエネルギーというものを感じた。これは現代の栄養学における栄養元素の量では測れないものである。また、身体の差はあれど栄養療法だけでは治療の成果が現れないことのヒントでもある。つまり、その病状に有効な栄養や不足する元素を摂取して全員が治癒することはない。

では、力強い食材とはどの様な食材なのだろうか?私が行きついた一つの結論は、”なるべく野生・オリジナルに近い形で育ったもの”である。付け足すならば、人間の都合に合わせずに育ったもの。それは農薬や化学肥料の使用といった育て方だけではない。例えば、”糖度”を争い、より甘くする為に掛け合わせた野菜や果物の品種改良、一代限りしか育てられない種(いわゆるF1種)の開発も人間都合だ。そうなると、なるべく原種に近い作物、種取りして次のシーズンでも育てることの出来る種(よく固定種、在来種)がより自然な形ということになる。魚であれば、自然界(ここでは人間界以外という意味で用いる)で育った魚であり、いわゆる養殖の様な、本来その種が食物としないものを餌として育てられた魚ではない。家畜としての肉類であれば、本来の食物を食す動物だ。例えば、牛は本来草食動物であることを加味するならば、穀物肥育よりも牧草肥育の方が野生に近い。食用としての植物であれば、山で自生する山菜、肉類であれば、飼育されずに山を駆けずり回る猪や鹿は野生そのものである。上記の基準で述べるならば、力強い食材のトップに位置する。

こうした、より力強い食物を常食とすることが出来れば、人間は必要以上に食する必要はない。つまり、こうしたものを食していれば、現在の人類は”必要以上に食わされている”と気付かされるはずだ。何も私は大量生産で流通する食べ物が悪いと言いたい訳ではない。実際こうした食べ物が流通しないと80億人と言われる世界の人々を支えることは難しいだろう。ただ、今後増え続けるであろう人口に対して地球がどこまで持つかは甚だ疑問である。ゲップに含まれるメタンガスを地球温暖化のせいにするなど愚の骨頂だ。人口増加に対するアプローチは本当に代替肉なのだろうか。その代替肉自体の素材が”力弱く、必要以上に味付け”されていれば、結局食べ過ぎて地球と私達のの首を絞めてしまうではないか。まずは私達が”必要以上に食べている、食わされている”ことを自覚し、”力強い食材”を口に入れる機会を増やす方が、環境負荷低減に貢献出来ると感じるのは私だけだろうか。自戒の意を込めて。

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